人間社会の葛藤
シェイクスピアの戯曲『リヤ王』の中に「人はみな泣きながら生まれてくる」という有名な台詞があります。
リヤ王はグロスター伯爵に向かってこう言います。
「人は皆、泣きながらこの世にやってきたのだ。そうであろうが、人が初めてこの世の大気に触れる時、皆、必ず泣き喚くcc生まれ落ちるや、誰も大声を挙げて泣き叫ぶ、阿呆ばかりの大きな舞台に突出されたのが悲しゅうてな」(福田恆存訳・新潮文庫)
赤ん坊は誰でも泣きながら生まれてきます。泣きながら生まれてこない赤ん坊などおりません。「おぎゃあ」という叫びは、赤ん坊が無事に生まれてきたと同時に、この世に新しい命が誕生した合図でもあるのです。ですから、赤ん坊が泣かないと大変です。五体満足なのか、どこか具合が悪いのではないか、そのうち死ぬのではないかととても不安になります。そんなとき、むかしはお産婆さんが赤ん坊のお尻をピチャピチャたたいて様子を見たものです。赤ん坊がやっと泣き始めると周囲の人たちはホッと顔を見合わせて安心したのです。
このリヤ王が言った「人は皆、泣きながら生まれてくる」とは、一体何を意味しているのでしょうか。
人間が泣くという行為は、苦痛や不安、悲しさ、辛さ、、悔しさ、恐ろしさというように、人間のマイナスの心、仏教でいえば「悲」の心を表したものだと思います。赤ん坊が泣くということはそれを意味しているのでしょうか。「そんな意味なんかないよ」「嬉しい時だって泣くよ」「赤ん坊が泣きながら生まれてくるのは当たり前じゃないか。そこには意味なんかないんだよ」という人だっているでしょう。確かに赤ん坊はまだ自己表現ができないから、泣くのが唯一の自己表現なのかもしれません。
では、赤ん坊が生まれて来る社会はどんな世の中なのでしょうか。「人間は生まれながらにして平等だ」という言葉があります。果たしてそうでしょうか。お金持ちの家に生まれてくる子もいれば、そうでない子もいます。五体満足に生まれてくる子ばかりだとは限りません。障害を持って生まれて来る子もいれば、病気を背負って生まれてくる子もいます。また、王様の子として生まれてくる子もいれば、明日の生活にも困る困窮した家の子として生まれて来る子もいるでしょう。戦争や殺戮の中に生まれてくる子もいます。飢饉のため生まれてきても食べるものがなく、薬もなくて死んでいく子も大勢います。つまり人間は生まれ落ちたときから不平等、不公平な環境におかれるわけで、こうした理不尽なところがあるのが人間社会であり、世の中です。
人間は生まれ落ちたその瞬間から、食べるものや、着るもの、住むところという経済的、社会的な環境に差があります。極端に言えば社長の子で生まれてくるか、貧乏人の子に生まれてくるかでは、その後の人生そのものが大きく異なるのです。これは世の中がむかしから格差社会であり、不平等、不公平で成り立っているから仕方がありません。
人間はそうした社会の中で様々な対立や葛藤を繰り広げ、生きていかなければなりません。そこには艱難辛苦、阿鼻叫喚、怨憎会苦、無間地獄、愛別離苦、喜怒哀楽など人生のさまざまなドラマがあります。悔しさをバネに生きる人もいるでしょう、人の何倍も努力して成功する人もいます。いくら努力しても報われない人もいます。人生を悲観して自らを死に追いやる人もいるでしょう。笑いながら生きていく人もいますが、やはり泣きながら生きていく人たちが圧倒的に多いと思うのです。
人間は「おぎゃあ」と生まれると、そうした理不尽な人間社会の葛藤の中に、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に放り出されます。嫌だといってもそれから逃れることはできません。しかもそうした社会に一人で生まれてくるのですから寂しさや哀しさは尋常ではありません。だから泣きながら生まれてくるのではないでしょうか。リヤ王は「阿呆ばかりの大きな舞台に突出されたのが悲しゅうてな」と、それを皮肉っているのです。
三つの真理
作家の五木寛之は「人はみな泣きながら生まれてくる」という言葉のなかには三つの否定できない真理が含まれていると言っています。一つは「人間は自分で自分の生まれ方を決められない」ということ。二つ目は「人間の一生は日々死へ向かって進んでいく旅である」ということ。そして三つ目は「人生には期限がある」ということです。
一つ目の真理「人間は自分で自分の生まれ方を決められない」というのは、非常な論理です。人間はどの時代、どの国、どの家、誰を親に持つかを自分で決めることはできません。体つきや皮膚の色、才能、個性、遺伝子すらも自分では決定できません。人間は人生の第一歩からして自分の意志を超えた、何らかの力で本人の努力とは無関係に決められてしまうのです。つまり人間が生まれてくることは自己実現の結果ではありません。まさに不条理としか言いようがないのです。
二つ目の「人間の一生は日々死へ向かって進んでいく旅である」ということも大変つらい真理です。人間は生まれた途端、死へ向かって歩き始めるわけで、人間のゴールが死だということも、これもまた非常な論理だと言ってもよいでしょう。
文芸評論家の小林秀雄も、「人間は オギャアと生まれたときから死に向かって歩いていく旅人のようなものだ」と言っています。小林秀雄が言うと、何となく哲学的に聞こえるから不思議ですが、人間は誰もが死というゴールに向かって進んでいるのです。
解剖学者の養老孟司さんが『死の壁』という本の中で面白いことを言っていました。人間の死亡率は何%かというのです。改めてそう聞かれると、ちょっと戸惑ってしまいますが、よく考えてみると、誰でもこれが「一〇〇%」であるということに気がつきます。当たり前といえば当たり前の話なのですが、今を生きている人たちはそう思っていないため、人生がいつまでも続くと錯覚しているのです。ほとんどの人が「死は自分とは無関係な世界だ」と思っているでしょう。
養老さんは「人生の最終解答は『死ぬこと』だということです。これだけは間違いない。過去に死ななかった人などいません。人間の致死率は一〇〇%なのです。ガンの五年生存率が何%だ、SARSの死亡率が何%だ、と世間では騒いでいますが、その比ではないのです」と述べています。
「そうか一〇〇%なのか」
だったら養老さんが言っているように、ガンやSARS、鳥インフルエンザでガタガタと騒ぐことはない。そもそも人間の死亡率は一〇〇%なのだから、これをどう自覚し、これどう向き合い、どう生きていくかを考えればいいのだということになるわけです。。
三つめの「人生には期限がある」ということは、人間は永久に生きられない、いつかは死ぬということです。私も不慮の事故や心筋梗塞で明日死ぬかもしれません。でも、多くの人は「せっかく生まれてきたのだから病気をしても七十、八十という平均寿命までは生きたい」と願うのが人情です。もっとも長生きして百歳まで生きられる人がいるかもしれません。しかし遅かれ早かれいつか死ぬことには変わりはありません。つまり人間にとって不老不死などはないということ、これも非常な論理といえるでしょう。
五木寛之は、「人はみな泣きながら生まれてくる」というリア王が放った言葉の意味の中に、こうした三つのどうにもならない真理があることを発見しました。これはまったく恐るべき認識といえるでしょう。
この三つは誰に対しても平等です。お金持ちであろうと、大統領であろうと、貧乏人であろうと、どんな人であれ、この三つの真理から逃れることはできません。人間はこの真理に気づく人もいますし気がつかないままに死んでいく人もいます。ですが、齢を積み重ねると次第にこうしたことがわかってくるのではないでしょうか。私は五十歳を過ぎて、やっとこうした真理があることに気が付きました。私はこの真理を理解するのが早ければ早いほどいいと思っていますが、でも早く認識し理解したからといって、世の中や自分の人生がどうにかなるものでもありません。
慈悲、そして暗愁
五木寛之は「人間はこの三つの真理をまざまざと感じ始めた時、唖然として人生のはかなさややるせなさを感じ、わけもなく深い思いの淵に沈んでしまう。明治のころの人は、それを暗愁(あんしゅう)という言葉で表現した」と述べています。
阪神淡路大震災の時にテレビを見ていたら、肉親を亡くした家族や被災に遭った人たちに、レポーターが「頑張って」という慰めの言葉をかけるシーンが目に飛び込んできました。ところがそうした言葉をいくらかけても、無言の言葉が返ってくるだけで、安らかな気持ちになる人はいませんでした。家を押しつぶされ、家族が死んで途方に暮れている人たちに、いくら頑張ってと言っても、亡くなった人たちが戻ってくるわけではないからです。
病気や事故で子どもをなくした母親が明るく元気に生きましょうといわれても、明日から明るく元気に生きることなどできません。そうした言葉は空虚さ以外なんの意味も持たないのです。そうした時、人間は、せめてそばにいて、「ああ」と深い溜息をついて嘆き悲しむことぐらいしかできません。そんな力にならないことをして何になるのという人もいるでしょう。でも、「後三カ月の命です」と宣告された患者に向かって、どんな言葉を発しても、何の力にもならないのです。
仏教に「慈悲」という言葉があります。簡単にいうならば「慈」は「がんばれ」という励ましの意で、「悲」とは文字通りの「なぐさめ」です。悲しんでいる人に、「いつまでくよくよしているの。気を持ち直して頑張りなさい」というのが「慈」で、黙って一緒に涙を流すことで、その人の心の重荷を自分のほうに引き受けようとするのが「悲」です。
「がんばれ」という励ましは、右肩上がりで来た戦後日本の高度成長にふさわしい言葉でした。しかし、格差社会の進行で先行きの見通しが不安になった現在、自殺者が一年に3万人を超す時代に、「がんばれ」という言葉が果たしてどれほどの効果を持つでしょうか。乾いた慈よりも湿った悲のほうが人々を不思議な安心感に誘ってくれる場合があります。
死に逝く人の気持ち
『納棺夫日記』を著した詩人の青木新門さんは、小説だけでは食えないため葬儀屋につとめたら、納棺夫の仕事ばかりやらされたそうです。納棺夫とは、死体をアルコールで拭いて、仏衣と称する白衣を着せ、髪や頭を整え、手を組んで数珠を持たせ、納棺するまでの一連の作業を行う人のことをいいます。俳優の本木雅弘さんが主演した映画「おくりびと」ですっかり有名になりました。青木新門さんは、納棺夫という仕事を通して何十年にもわたって死と生をみつめてきた人です。
青木さんは著書の中で「末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい。説法も言葉もいらない。きれいな青空のような瞳をした、すきとおった風のような人が、側にいるだけでいい」と書いています。
自分の死を折に触れて考えてくれる人が来ると、死に直面している人は死への恐怖が安らぐといわれています。その代表的な人が僧侶や神父かもしれません。ホスピスにたずさわっている医者や看護師もそうかもしれません。青木新門さんは、死に直面して不安におののく人を癒すことができるのは、こうした死について考えることのできる人だけだということを言っているのです。患者を支える医師や看護師が日ごろから「自分の死」について考えていれば、それは」自然と患者に伝わるのです。いまこの人に死期が迫っているけれども、やがて自分もそちらに行くよという思いは、言葉に出さなくても相手に伝わるのです。
大病して死の恐怖に遭遇した人、死線をさまよった体験のある人も、死へのおののきを癒すことのできる人たちでしょう。そうした人々は何を語らずとも末期患者の不安や恐怖を理屈抜きに共有できるところがあります。死を疑似体験した人、死の恐怖と向き合ったからこそ覚醒できる思いだからでしょう。ですから健康で生を謳歌している人がいくら何を言っても慰めにもなりません。きれいな青空のような瞳とすきとおった風のような人にはとてもなれないのです。
私は五十二歳の時、二つ年上の姉を癌で亡くしました。末期癌で入院した彼女は、抗ガン剤治療を施しましたが、髪の毛は抜け、吐き気が襲い、みるみるうちに痩せて体が衰弱していきました。治療は延命というよりは苦痛との戦いでした。抗ガン剤を投与した後、一時退院した姉は、たった一人で何ヶ月も在宅ケアに身をゆだねていました。子どもがいないものですから、頼ることができるのは夫だけです。でも夫が出勤して帰宅するまではひとりです。昼間ひとりぽっちで誰もいない生活は孤独で、不安と恐怖の連続ではなかったかと思います。そんな姉のために、夫は姉に携帯電話を持たせ、昼間の連絡に使っていました。寝ている姉がいちいち固定電話のところまで起きて行くのが大変だからです。携帯電話は姉が寝ている布団の枕元にいつも置いてありました。
亡くなる数日前でしたが、私は何か予感めいたものを感じて夕方、電車を乗り継いで姉が入院している病院を訪ねました。姉は不意の来客に驚いたような顔をしていましたが、やつれ果てた姉の顔を見ているとかける言葉もなく、背中をさすってあげたりただだまって手を握りしめてあげるのがせいいっぱいでした。
死期迫った人間には、どんなことばをかけても無力です。「頑張って」という言葉は、慰めどころか残酷でさえあるでしょう。とりとめのない会話がポツンと途絶えると病室に無言の時間が広がっていきました。私は明らかに死の予感を感じていました。つとめて平静を装っている姉も口にこそ出しませんでしたが、それを予期しているようにも見えました。その時、私は「暗愁」に似たやるせない気持ちを抱きながら「またくるからね」という言葉を残して病室を後にしたのです。
私は帰りの電車の中で、なぜか二年ほどまえに自分が受けた心臓手術のことを思い出していました。昔であれば死と隣り合わせの大手術です。手術は心臓を停止させ人工心肺を使ってバイパス手術を行うもので、手術の成功を疑うものではありませんでしたが、心のどこかに死を意識していたようなところがありました。手術中、意識のない空白の時間が九時間ほど続きましたが、いま考えてみるとあれはまさしく時空を越えた「虚空」の世界だったような気がします。そこには光も音も時間も意識もないブラックホールのような世界、自分の存在と宇宙が一体となった何とも不思議な世界のような気がします。寝ている時は死後の世界に行っているという話を聞きますが、まさに無というか虚空のような世界でした。
姉がその世界に行ったかどうか分かりませんが、死後の世界はそうしたものかもしれません。姉は四日後に、黄泉の国へと旅立ちました。
四つの苦しみ「生老病死」
人間が生きていくには勇気や努力、意志、忍耐が必要です。しかし、不屈の勇気や不断の努力、強い意志、そして忍耐力をもってしても、どうにもならないことがあります。人間は格差のある理不尽な世の中に泣きがら生まれてきました。それだけでも辛く大変なことなのですが、実は生まれ落ちた瞬間から、格差社会と同時に四つの苦しみを背負って生きていかなければならないということに気がつきます。それは希望や努力では克服できない「宿命」のようなものだといってもいいでしょう。
今から二五〇〇年ほど前、二十九歳の釈迦は「人はすべて思うに任せぬ条件を背負って生きている」と説きました。この思うに任せぬものとは「生・老・病・死」の四つです。これを「四つの苦しみ」とも言いますが、苦しみというよりは「思うにまかせぬ」としたほうがピッタリときます。
人間は、何もので、どこから来てどこに行くのかという疑問、なぜ老いていくのかという不安と怖れ。そして病を得ること、死んでいくことは宿命的といえるほど「思うに任せぬこと」でしょう。従って人生の禍福は転々としてまるで予測がつきません。まさに「人間万事塞翁が馬」なのです。
人間は生まれた時からこの生・老・病・死という四つの苦しみを背負って生きていかなければなりません。私は二十九歳の時にこのことを啓示(黙示)した釈迦を思うとき、まさに天才としかいいようのない釈迦の怖ろしさを感じます。
釈迦が言うようにこの「四苦」はまったく思うにまかせぬもの、自分の意思ではどうにもならないものです。しかし、偶然にも人間として生を受けた以上、S・カルマ氏(『安部公房『壁\S・カルマ氏の犯罪』)のように壁になることもできないし、グレゴール・ザムザ(カフカ『変身』)のようにカブトムシになることもできません。この事実をいやがおうにも受け止めていくしかないのです。
生の不安とは何でしょうか。人間は何のために生まれてきたのか、どこから来てどこへ行くのかという疑問を考えていくと、夜も眠れないという人がいます。私もその一人ですが、生の不安は死の不安でもあるのです。
医師の帯津良一さんは、人間は「虚空」から来て「虚空」に帰ると言っています。一五〇億年前にビッグバン(宇宙の始めに起こったと考えられる大爆発)が起こり、宇宙が生まれました。このビッグバンは虚空の中から生まれたのです。虚空とは何もないという意味ですが、何もないけれど宇宙を生み出すほどのとてつもなく偉大なエネルギーを持っています。このビッグバンが何百何千という宇宙を生みだし、その宇宙が銀河系を、太陽系を、そして地球を生みだしたのです。私たちの生命は自分の親、そのまた親、そして先祖から代々受け継がれてきました。もっとさかのぼれば地球、太陽系、銀河系、小宇宙、大宇宙、そしてビッグバンにまでたどり着きます。つまり私たちの生命の源は「虚空」にあるわけです。
帯津さんは、人間は一五〇億年かけて虚空からこの地球に降り立ち、八〇年ぐらい地球で生きて、また一五〇億年かけて一人虚空へ帰っていく「旅人」であると言っています。
人間は宇宙から生命のエネルギーを与えられて、地球という星に途中下車してきました。途中下車ですからほんのちょっとの一休みかもしれませんし、遊びのための寄り道かもしれません。しかし命のエネルギーを与えられた以上、生命という場に身をおかなければなりません。
この地球には人間が生きていくための道場ともいえるさまざまな修行の「場」が与えられています。仕事場、家庭の場、闘いの場、養生の場、恋愛の場、趣味の場、食の場、医療の場、学びの場、など実にさまざまで、人間一人ひとりがこの地球上で場のエネルギーを作り出しています。この場はいわば「生命の場」ともいえるもので、この場のエネルギーを押し上げていく試練が、人間に生の意味を問いかけているのです。
この場を昇華してエネルギーがたまったとき、人は再び虚空に帰るわけで、帰りも来たときと同じように一五〇億年かかります。帯津さんはこれが死で、死は終わりではなくまさしく旅立ちです。従って地球上にいたときにしっかりとエネルギーをため、勢いをつけて死の世界へ旅立ちをしなければなりませんと言っています。
人間はたった一人でこの世に生まれてきました。死んでいくときも一人であの世に旅立たなければなりません。一人じゃ淋しいからといって一緒に生まれてくれる人もいませんし、一緒に死んでくれる人もおりません。そう考えると、人間はなんて寂しくて哀しい存在だと思わずにはいられません。
帯津さんも一人旅は哀しさ、寂しさをみんな遺伝子の中に遠い記憶として持っている。だから人間は哀しくて寂しいのは当たり前、無理して明るく前向きにふるまう必要はないんだとまで言っています。
「大切なのは、生きていることは哀しくて、寂しいことだと気づくことです。悲しみの大地にどっしりと腰を据え、その堅牢な大地に希望の樹木を何本も育てていくのです。大きな希望、小さな希望、何でもかまいません。小さくても希望の花が咲けば、心がときめきます。このときめきが大事なのです。ときめきは生命のエネルギーの小爆発です。小爆発によって生命の場のエネルギーが外にあふれ出します。これこそ最もすぐれた養生なのです」(帯津良一『養生という生き方』JTBパブリッシング)。
場のエネルギーをときめきに変えていくところに、人間の生、生きる意味があるのではないでしょうか。このときめきは人々によってさまざまです。
病気なっても健康
人間はこれまで科学や合理主義で、思うに任せぬ病気や死を「思う通りにしよう」と努力してきました。人間の寿命が五十歳から八十歳になったこと、一部の病気を克服する能力を持つことが出来るようになったことなどは、まさに科学の勝利と言えるでしょう。しかし、これは人間の思い上がりかも知れません。
人間は誰でも病に罹ります。風邪のような軽い病気から心筋梗塞や脳卒中、癌などの生死を分ける重い病気にかかる人など、この世に生を受けて以来大なり小なり病気にかからなかった人はおりません。いわば病は人間の同伴者ともいえるのです。
仏教の世界では人間の生命の中には最初から「四〇四病」の原因が内包しているとされています。人間の体は地、水、火、風の四つの元素から出来ていて、その四つにそれぞれ一〇〇の病が起こるとし、もとの四つの元素を合わせて「四〇四病」と考えたものです。それが体の状況や周囲の変化の中で出たり引っ込んだりします。
五木寛之は「病気とはこの内在しているものが、ひょいと顔を出すだけで、たまたま死ぬまで病気が出なかった人はとても幸運だったといえるのです」と述べています。
そう考えると「無病息災」をまっとうできる人間はまずおりません。「一病息災」いや「二病息災」「三病息災」というように、病気と上手にお付き合いしていくこと、共生していくことで、逆に人間は生かされているのではないかと思うのです。
健康な人間はほとんどの人が自分は病気とは無縁だと思っています。自分はガンになるはずがない、心臓病で倒れるはずがないと思っています。しかし誰でも病気や死ぬかもしれないというリスクを持っているのです。明日死ぬかも知れないし、1ヵ月後に心筋梗塞で倒れるかもしれません。病気になると、自分はこれまで健康だったのに、何でこんな病気にかかってしまったのだろうと思います。昨日まで元気だったのにとこれまでの人生を後悔し悩むのです。しかし、そうだからといって決してふさぎ込むことはありません。昨日まで元気だった。従って「病気になるまで健康」というのは間違いではありません。でも人は大なり小なり病気にかかってしまう、病気に冒されるということを考えると、「病気になってふさぎこむ」より「病気になっても健康」というのが正しい認識、真理だと思うのです。
昔から健康の秘訣は「腹八分」と言われています。大食しなければ病気に冒されないという意で、「腹八分に医者いらず」とも言います。しかし、これも年齢に応じてということであって、五十歳を過ぎた私の実感からすると「腹八分」でも多すぎるような気がします。骨も筋肉も内蔵もしっかりでき上がってしまった後では、人間そんなに食べなくてもいいのです。
十代の青少年はたくさん食べて身体をつくらなければいけないので「腹十分」すなわち「満腹」でいいのですが、二十代は「腹九分」、働き盛りの三十代になると「腹八分」が原則です。しかもこの時期はすでに老化が始まっています。「腹八分」というのは、人間の全盛期における食生活の戒めを言った言葉で、生まれて死ぬまで、ずっと「腹八分」でいいわけではありません。
従って四十代は「腹七分」でコントロール、五十代は「腹六分」、六十代になると「腹五分」が目標ですから、食事は一日一食半で済みます。七十代は「腹四分」、八十代は「腹三分」、九十代は「腹二分」、百歳になると「腹一分」、つまり百歳を越えるとほとんど食べなくても生きていけるというように、齢とともに、食事の量を減らしていくことが肝要なのです。
そう考えると「過食が病気の元」であることも分かります。
老いも自然の流れ、死も無理に遠ざけることをしなければ、違った生き方が見えてくるでしょう。「病気になっても健康。」生・老・病・死を恐れず、この内在するものとどううまくつきあっていくかが人間としての大事な生き方のような気がします。
人身(にんじん)受け難し
仏教に「六道輪廻」という言葉があります。六道とは、下から地獄・餓鬼・畜生・修羅(阿修羅)・人・天の六つのことを指しますが、人は天よりは下ですが、餓鬼・畜生・修羅よりは上です。
日本の仏教者はしばしば、生きとし生けるものはすべて六道を流転しているので、馬や牛、蝿やゴキブリも自分の父母の生まれ変わりかもしれない。したがって生き物を殺してはいけない、彼らを人間同様慈しみなさいと説いています。これを六道輪廻というわけです。
では、人間として生まれてきたということはどういうことなのでしょうか。本当は豚や馬、蛇とかトカゲに生まれてきたのかも知れない、あるいは修羅に生まれてきたかもしれないのに、人として生まれてきたのだから、これはとても幸運なこと、ラッキーなことではないかと思われます。六道輪廻からすると、人間として生まれてくる確率は六分の一ということになるわけですが、あらゆる生命の中で考えれば大海の中で栗を拾うがごとく実に稀なことなのです。そう考えると人間として生まれてくることは、ものすごく大変なこと、おそらくありえないぐらい困難なことかもしれないといわなければなりません。
ですから仏教は「人間は仏になって二度と生まれ変わらないようにしなさい」と教えているのです。これを仏教では「人身(にんじん)受け難(がた)し」と言っています。つまり仏教は、次はどこに生まれるのかという不安や恐怖心があるのなら、それをバネにして仏道を精進しなさい、命を大事にしなさいと説いているのです。
「人身(にんじん)受け難し」という言葉から、私は次のようなことを悟りました。
六道輪廻ですから、輪廻転生、つまり人間が再び人間に生まれてくるという保証はわずかしかありません。たった十六%です。これは本来ありえないということと同じことではなかろうか。少なくともそう思ったほうがいい。にもかかわらず人間は誰でも人間に生まれ変わると信じています。これは人間の全く手前勝手な思いこみだと言わなければなりません。ですから、「今度生まれてくる時は違う人間になって生まれてきたい」「生まれ変わったらまた一緒になりましょうね」などというのは実におこがましいことなんだ、人間の全くの思い上がりだと言わなければならないのです。
帯津良一さん風に言えば、人間は虚空から生命のエネルギーをいただいて百五十億年かけて地球にやってくる。亡くなった魂が地球を旅立って虚空=浄土に帰るにも百五十億年かかります。従ってまた人間に生まれ変わるには三百億年かかることになるわけで、そのときに地球があるという保証はまったくありません。そう考えると輪廻転生などというのは宇宙という天文学的な時間からすると、いささか無理がある、死後の世界にはなじまないのではないかという気がします。
それにこの地球での生活は理想郷ではありません。リヤ王が言ったように、人間は泣きながらこの世に生まれてくるわけですから、さまざまな困難に出会います。この世はそうした修行の場ですから、決して桃源郷ではありません。輪廻転生だからと言って、わざわざ修行の場、阿鼻叫喚の世界に戻って来ることはないのです。修行後はもっと素晴らしい死の世界=浄土を目指した方がはるかに夢があって楽しいのです。しかも一五〇億年かけて虚空に帰っていくわけですから地球の比ではありません。ですから「死は修行を卒業する」ことだと考えた方がいいのです。
輪廻転生で再び地球に戻ってきて、万が一生まれ変わることが出来たとしても豚や馬かもしれません。いや豚や馬だったらまだいい、蚊やゴキブリとして生まれてくるかもしれないのです。人間として生まれてきたということは本当に幸運で奇跡に近いこと、これ以上ない幸福なことです。ですから輪廻転生などということは考えずに、命を大切にして人間をまっとうする、修行をまっとうすることこそ意味のあることだといわなければなりません。この人間をまっとうすることとはどういうことでしょうか。
命のリレー
私は常々、人間が生まれてくることには二つの大きな意味があると思っています。一つは命のリレー、もう一つは精神のリレーです。命のリレーとはいうまでもなく子を産み育てるという行為で、子育ては人間社会の中でも最も価値ある仕事であり、これがなければ社会は崩壊してしまいます。
命のリレーは、その家系、あるいはより広く言えば民族が永遠に続くということを意味しています。親がいて子がいれば、確実に七〜八十年は命が続きます、孫が生まれれば一〇〇〜一二〇年は命の継承が可能でしょう。徳川幕府は二五〇年、十五代も続きました。続いたというのは政(まつりごと)を司る権力者として十五代続いたと言う意味で、命のリレーは今日まで途絶えることなく続いています。命のリレーは個人的な財産であると同時に、社会的にも大きな財産です。それは民族や国家の繁栄にも結びつくからです。
女性が子どもを生むという行為は最も価値ある仕事で、人間がどんなに素晴らしい商品を創り出しても、どんなに莫大な財産を築いたとしても、命のリレーにかなうものはありません。まさにノーベル賞以上の価値があるのです。その意味では、女性が子どもを一人でも産んだら、一生何もしないで寝て暮らしたとしても誰からも非難されるものではありません。
まさに「しろがねもくがねもたまもなにせんにまされる宝子にしかめやも」(大伴家持『万葉集』)です。
命のリレーは、その人の遺伝子、家系、家制度を次の世代に確実にバトンタッチすることを意味しています。封建時代の領主が嫡男を得るため、多くの側室を抱えたというのは男女関係ばかりが目的ではなく、命のリレーを確実にするための方策でもあったのです。
命のリレーの主導権を持つのは何といっても女性です。生殖学的には男女両性がその行為に関与するわけですが、世の中に命を産み落とすという作業は、女性が独占的に所有する固有の行為であるわけです。
男性は子どもを産むことができないから、家の外に出て働くことしかできません。こう書くと「子どもを生まない女性はどうなるのよ」と文句を言う人がいます。確かに子どもを生みたくても生めない、子どもが授からないという女性もいます。そうした女性は子どもを生まないから生産的でないとは言えません。子どもを生まない女性は、男性と同じことをすればいいのです。
ところが今日、この命のリレーという自然法則的な形態が崩れつつあります。特に現代に入ってから人間社会、女性はこの出産という行為を恣意的に操作するようになりました
戦前の「生めや増やせよ」の時代から、戦後の日本社会は明らかに人口抑制時代に突入したのです。それは人口が多いから減らそうというのではなく、結婚しても子育ては大変だから、あるいは面倒くさいから子どもを生まない、生むのを減らしていこうという考えで、いわば命をリレーするためのバトンを放棄するという道を選択し始めたのです。そして世の中に、パラサイトシングルと呼ばれる結婚しない人たちが大量に出現し、このため、出生率が大きく割り込み、人口を維持していくということが困難な時代になってしまいました。
このため女性が自然法則的に、安心して子どもを生むにはどうしたらよいかが、政治の大きな課題になっています。育児休暇や育児手当、子育て支援もいいでしょう、でもいくら制度的整備を行っても、子育てを女性の仕事だと決めつけていては、生まれてくる子も生まれてはきません。
結婚した女性の仕事は家事、子育てであるとして、「専業主婦」などという言葉が出てきたのは、戦後もしばらく経ってからで、それ以前は専業主婦などという言葉はありませんでした。しかも、この専業主婦という言葉は女性の間に誤ったプライドを植えつけることにもなったのです。
かつての日本は大家族主義でした。子育ては夫婦ばかりでなく、年寄りがいて、兄弟姉妹がいて、場合によっては小姑もいて、家族や社会みんなで育てるというのが当たり前でした。ところが、この家事と子育てを専業主婦が独占することによって、いつまでも子離れしない母親と家庭で居場所のない父親が大量生産され、子ども中心主義の家族が出来上がってしまったのです。
しかし、昔のように大家族主義に戻すことは不可能です。せめて、家事や子育てを女性だけの仕事としてではなく、男性も家事や子育ての現場に入ることなしには、今日の少子高齢化という問題を解決しえないように思います。それは逆にいえば家事や子育ては女性の領分というプライドを、女性が捨てることをも意味しているのです。、
「主婦」とは決して夫の従僕的存在ではないし、「主夫」も妻の従僕ではありません。二人が対等に家事や育児をするということは、女も男も家事に専従するばかりでなく、社会に出る努力を共に払わなければならないという、本当の意味での男女共同社会への参画を意味しているのだと思います。
精神のリレー
人間が生まれてくることのもう一つの意味は精神のリレーです。精神のリレーとは、人間の知識や知恵、技能、文化などを伝える行為です。実はこの精神のリレーには大きく言って二つの意味が含まれています。一つは知識を「伝達する」という行為であり、もう一つは知識を「考えながら伝達する」という行為です。
人類が誕生してから、まもなく火や道具を使うようになりました。そして次にそれを伝えるため、人類は言葉を話したり、文字を使うようになりました。この人類の知恵や記録が幾層にも積み重なって、今日の文化や文明を築いてきたのです。
この知恵は、人類を構成する最も小さな単位、家族を構成する一人ひとりの人間によって伝えられ、さらにもっと大きな社会、部族や民族、あるいは自分たちとは異なった世界の人々、そして次の世代、さらにまた次の世代にと継承され、何千年、何万年を経過して今日まで伝えられてきたのだと思います。
生きていくうえでの知恵、つまり生活の仕方や暮らし方という知恵は、現代社会では直接的には親子、兄弟、あるいは学校や職場、地域社会を媒介として、広まっています。そしていつのころからか、これが記録となり、現代はメディア(新聞、書籍からテレビ、インターネットまで)が広範な人々にそれを伝えるという役割を担っています。たとえば、親が子どもを育てるという仕事は、人間が生きていくうえで最も基礎的な知恵を身につけさせる、伝える、教えるという行為で、とても大きな意味がありますが、テレビやインターネットは、親や学校、地域社会の領域を越えて、無秩序的に広範な知識を伝播します。
自分が取得した知識や知恵を、他人に伝える、教えるということは人類の目的からいえば至極当然なことです。そうすることによって、人類は進化してきました。
ところが、こうした知恵以外にも、人間は生きていく上で、重要なことがあることに気がつきました。人間はどこから来て、どこへいくのだろう? とか、人間は如何に生きるべきか? 自分は何者か? というような精神や心の問題にかかわることです。哲学的なこと、宗教的なことと言ってもいいでしょう。いつのころからかこれが生きていくうえで不可欠なものだということが分かってきました。そして生まれてきたのが、文学とか絵画とか、音楽や芸術という世界です。
われわれ人間はいってみれば、こうした知恵を継承していく「ランナー」でもあるのです。これは実は大変なことなのですが、人間が生まれたこと自体大変なことですから、仕方がありません。ですから、小説家や哲学者、芸術家は、「精神のリレー者」ともいえるでしょう。
この「精神のリレー」にはとても深い意味があります、これは単に知識を伝えるということではありません。
作家の埴谷雄高が次のようなことを言っています。たとえば文学には「記録型の文学」と「魂の渇望型の文学」がありますが、記録型の文学というのは、昔ある偉い人(王様でも、将軍でもなんでもいい)がいてこういうことをしたと、白い紙の上に記録するのが「歴史」というものの始まりで、さらに個人の内面の心の動きの歴史をも記録し始めると、いわゆる「文学」という世界に入ってきます。
現実から発して現実の延長線上にある可能なものを記録するわけで、これが記録型の文学といわれるものです。この記録型の文学はそれ自体で完結しているというのが特徴で、主人公の生き方が立派で見事だという点に共感したり、物語の構成が非常にうまいという点に関心したりしますが、作品は読者と独立しているわけですから、楽しむことだけで誰にも文句は言われません。知識として習得した、面白かったということで十分なわけです。文学とよばれるもののほとんどがこうした記録型の文学です。
ところが、魂の渇望型の文学というのは、そうはいきません。
この魂の渇望型の文学というのは、ありもしない、ありえないというような非現実と不可能性という領域に踏み込んでいます。
たとえばドストエフスキーの『地下室の手記』を読むと、「二二が四」のことが書かれていますが、わわわれは学校で算数の時間に掛け算は二二が四と習いました。ですから二二は三にも五にもならない、それが間違いだということも知っています。ところが、ドストエフスキーは三かもしれないし、五かもしれない、いや七や八かもしれない、そして挙げ句の果てには「人間、意識しすぎることは病的だ」とさえ言っているのです。ですから、結論が出ているとか、読者と独立しているとかいった関係ではまったくないのです。しかも人間は、この意識を他のなによりも大事にするのです。
ドストエフスキーを読むと、よくドストエフスキーににらまれたかとか、ドストエフスキーを読むだけで責任を感じるといわれますが、彼はわれわれを無意識のうちに精神のリレーという競争の場へ引き込んで放しません。「お前も考えろ、バトンを渡すからリレーしろ」と言っているわけです。ところが、彼のいう精神のリレーというのは非常に難しい。そう簡単に彼のリレー者になれない。なぜなら、彼のバトンには「より深く考えること」という文字が刻まれているからです。
これはもう、楽しむとか、面白かったとかいう次元ではありません。「より深く考えろ」と言われても、ドストエフスキー以上に考えることはなかなかできません。けれども彼の作品を読んだ以上、バトンに「より深く考えろ」と刻まれている以上、仕方がないから、より深く考えようとする姿勢ぐらいは持って、リレーに出なければなりません。
日本人では小林秀雄、埴谷雄高、高橋和己、秋山駿などという文学者が、ドストエフスキーの後塵を拝して走っているに過ぎません。このうちの三人はすでに故人になりました。ほかにも大勢いますが、前の四人は代表的な人たちです。五木寛之もそうです。
ドストエフスキーは「われわれはみなゴーゴリの外套から出てきた」という有名な言葉を残していますが、戦後の日本の文学者のほとんどは、「ドストエフスキーの地下室から出てきた」と言っても差し支えありません。
「精神のリレー者」というのは、より深い意味ではこういうことなのだろうと思います。
でも、だれもが「精神のリレー者」になる必要はありません。ありませんが、広い意味では人間はみな「知的遺産のリレー者」と考えたほうがいいと思います。
テロリストのパラソル
Yさん、『テロリストのパラソル』という作品をご存じですか?。藤原伊織が一九九五年に第四一回江戸川乱歩賞を、翌一九九六年に第一一四回直木賞をダブル受賞した作品です。物語のあらすじは次のようなものでした。
アル中のバーテンダー・島村は、二〇年前のある事件がきっかけで、名前を変え、過去を隠して生活していた。穏やかな秋の日、新宿中央公園。いつものように、朝から公園でウイスキーを飲みながらウトウトしかけたその時、突然爆音が響いた。何らかの爆発物が爆発し、死傷者が多数出る。事件の被害者の中に、かつて学生運動で共に闘った友人・桑野や、三カ月だけ同棲したことのある女性・優子が含まれていたことを知る。かつて桑野と島村は、爆弾事件を起こし、警察に追われていた。爆発現場に置きっぱなしにしてしまったウイスキーの瓶から指紋が割り出され、島村は今回の事件でも疑いがかかることに。否応なく事件に巻き込まれ、島村は犯人を見つけようとする。
二〇〇二年一月一九日、新宿中央公園で消火器爆弾が爆発して一人が重体になる事件が起きました。この事件は私にとってショックでした。もちろん事件そのものに対するショックもありますが、この爆弾事件が、藤原伊織の小説『テロリストのパラソル』を現実化したように写ったからです。場所も新宿の中央公園、しかもナイアガラの滝の近くで、土曜日の午前中に事件が起きたことまでそっくりです。マスコミでも『テロリストのパラソル』との類似性が話題となりました。私は思わず「ああ、犯人はあれを読んだな」と驚くと同時に、何ともいえない湿った気持がこみ上げてくるのを感じていました。
私は大学を卒業した年の昭和四七年五月、これと同じ思いをしたことがあります。あなたは日本赤軍のコマンド岡本公三が、イスラエルのテルアビブ空港で手投げ弾と自動小銃を乱射した事件はご存知ですよね。このとき私は、岡本公三がフランスの詩人ランボーの『地獄の季節』を読んでいたという話を聞いて衝撃を受けました。私はその時、何か手がかりを見つけようと懸命になって『地獄の季節』を読んだ覚えがあります。もちろん、ランボーが生きた時代と岡本公三が生きている時代は別ですから、『テロリストのパラソル』のように、事件と重なるような直接的な表現はないのですが、確かに岡本公三が事件を起こすヒントになるようところがあって、私は唖然としました。
あなたは「小松川女高生殺し」という殺人事件があったのを覚えていますか? 昭和三三年の八月ですから、私が小学校一年のころだと思います。あなたはまだ生まれていませんね。犯人は在日朝鮮人で一八歳の少年だったことから世間を大きく騒がしました。私は大きくなってから、この犯人だった李珍宇が、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいたということを知り衝撃を受けたものです。
これも私が大学へ入った年に起きた事件ですから、鮮明に覚えているのですが、昭和四三年一〇月、永山則夫が連続ピストル射殺事件を起こし、ガードマンなど四人を次々に殺した事件がありました。逮捕後、永山則夫は獄中でドストエフスキーやカント、フロイト、マルクスの資本論などを読み、刑務所から支給されたノートにその感想を克明に書きつづっていたということです。昭和四六年に『無知の涙』というタイトルで出版され、ベストセラーになりましたが、永山則夫はそのノートの中で、「こういう事件が起きたのはあのころ、俺が無知だったから起こったことだ。貧乏だから無知だったんだ」と書いています。
『無知の涙』は私が大学を卒業して、ミニコミ紙のかけ出しの記者をしていた頃、会社の近くにあった喫茶店で働いていた同世代の女性が、その本をいつも小脇にかかえて勤務していたことを記憶しています。その女性はいつも当世風のファッションに身を包んでいましたが、『無知の涙』との取り合わせが如何にもアンバランスのようで、ちょっとした違和感を感じたのを覚えています。
ところで、ドストエフスキーは『罪と罰』の中で、主人公であるラスコーリニコフに、「ナポレオンはたくさんの人を殺して英雄になった。自分も金貸しの老婆くらい殺してもいいじゃないか」ということを言わしめています。
この『罪と罰』以後、文学の世界で殺人が大きなテーマとなりました。それまでの文学の世界では、殺人は一対一、つまり加害者は誰を殺すのか、そして被害者も誰に殺されるのかわかるというものでした。しかし、その後、人を殺すということが大きく変質して、現代は加害者が誰を殺すのか、また、被害者もいつ誰に殺されるかわからないという時代に突入してしまったのです。
戦争がその最たるもので、その点では今も昔も変わらないのですが、文学の世界で殺人の論理というものを初めて取り上げたのはドストエフスキーでした。それ以後、殺人のあり方が変質したといってよいでしょう。
無差別殺人、地下鉄サリン事件、ニューヨークの同時多発テロ事件は、加害者にとって被害者が、そして被害者にとって加害者が特定されないという、まさにそうした殺人の象徴であるだろうと思います。しかも現代において特徴的なのは、これにもう一つ理由なき殺人ということが加わって、事件の解明をいっそう混迷化させています。小松川女高生殺人事件以降、日本ではこの理由なき殺人事件が問題となり、文学における大きなテーマともなりました。
永山則夫は、事件後に殺人を起こした理由を「無知」という言葉で説明しましたが、現代の殺人は神戸の事件にしろ宮崎勤の事件にしろ、まったく説明のつかない事件が数多く起こっています。その意味では戦争という「集団の狂気」から「個人の狂気」の時代に入っているといっても良いのです。
現代は、生きているだけで殺人者になっているかも知れません。排気ガスによる大気汚染や家庭雑廃水による水質汚濁など、人間は気がつかないうちに罪を犯し人を殺している可能性があるのです。水俣病や四日市喘息、イタイイタイ病、川崎病公害訴訟などはそうした事件の象徴といってもいいのです。
この殺人の論理は、武田泰淳が『風媒花』の中で見事に解き明かしています。彼は主人公にこう言わせています。「僕が生きている限りある種の殺人に加担しているに違いなような気がする」。学生時代、この言葉が実に重くそして呪縛のように私の心をとらえて放しませんでした。
新宿中央公園の殺人者が何の目的で爆弾事件を起こしたかはわかりません。この場合の殺人の論理は、加害者にとって被害者が、そして被害者にとって加害者が特定されない無差別殺人であるということは明らかです。しかも理由なき殺人かも知れません。
そのとき私が思ったのは、犯人は『テロリストのパラソル』を読んだなということと、殺人がまるで映画やテレビでも見るゲームのように「疑似体験化している」という恐ろしさでした。これを虚構と現実の自己同一性と説明するだけでは何とも気持ちがすっきりしません。湿った実に嫌な感じなのです。これは神戸の事件でも感じたことです。個人の狂気の時代と言ったのはまさにそういう意味で、現代が病んでいるということの現れじゃないかと思っています。
現代文学には、殺人ゲームや殺人の疑似体験と現実とのギャップをいかに解き明かすかという課題が突きつけられています。
人生はポチャンの一瞬
芭蕉に「古池や蛙飛び込む水の音」という有名な俳句があります。この句を文学的に解釈すると、古池があって、そこに蛙が飛び込んでポチャンという音がした。その後、また池に静寂が戻って、もっと静かになったという意味のことだと思います。この句と対になるのが「静かさや岩に染み入る蝉の声」といえるでしょう。
ところが、この句を禅的に解釈すると悟りの句だと称する人がいました。教育評論家の境野勝悟先生です。私は境野先生の『利休と芭蕉』という作品を読んでそれを知り、唖然としました。
ある仏頂和尚が芭蕉に「人生、如何なるか」と聞いたそうです。
すると芭蕉は「蛙飛び込む水の音」だと答えました。
芭蕉が本当にそんなことを言ったかどうかわかりません。古池ですから、昔からあったし、今もある、これからもあるでしょう。その古池へ蛙が「ポチャン」と飛び込んだ水の音が人生だというのです。要するに「人生はポチャン」ということなのです。
これは何を意味しているかと言いますと、無限の宇宙や自然の生命の歴史から見ると、人間が七十、八十歳生きたといっても、ちょうど蛙が水に飛び込む音の瞬間でしかありません。
医者の帯津良一先生は、一五〇億年前にビッグバンが起こって宇宙生まれ、その宇宙から地球が誕生して人間が生まれたと言っています。逆に人間のルーツを辿っていきますと、父母や祖父母、層祖父母、先祖、地球、太陽系、銀河系、小宇宙、大宇宙、そしてビッグバンにまで辿り着くわけです。ビッグバンから人類の誕生まで一五〇億年かかっている。人生は宇宙や自然の長い歴史から見れば、まさに「ポチャン」の一瞬でしかないということが分かるでしょう。
ですから、人間、あれがいい、これが悪い、これは得だ、損だなどと文句を言っている暇はないのです。だから物事にこだわったり、善悪や是非にこだわって一生を無駄にするのではないということを芭蕉は言っているのです。
これが境野先生のいう「禅に学ぶ人間学」というわけです。芭蕉の句はまさに悟りの句であるわけです。
ですから、境野先生は人生は「ありのまま」「あるがまま」「そのまま」生きるのが最善なんだと言っています。ポチャンという自然の音を聞くことによって、人間は自然の生命とともに呼吸をするわけです。まさに人間の生命の「あるがまま」にです。
この「あるがままでいい」「そのままでいい」というのは、何も「怠け者でいい」ということではありません。自分の生命は昔から変わっていない。呼吸も昔のままだし、心臓の動きも同じだ。このままでいいんだと思うことによって、次に打つ手が分かってくるということなのです。そう思うことによって自分の生命と宇宙が一体となっていることに気がつくのです。
人は泣きながらたった一人で生まれてくる。そして「いかに生きるべきか」「自分は何者か」という疑問で夜も眠れないほどにさんざん悩んだあげく、「人身受け難し」で人間に生まれてきたという幸運を知ります。しかし、死ぬまで「生・老・病・死」がついて回り、人生はまったく思うに任せない。しかもその人生は蛙が池に飛び込んだときに発する音「ポチャン」の一瞬でしかないのです。
人間は何と寂しく哀しい存在なのでしょうか。帯津さんが言うようにそのことに気がついたら無理して前向きに明るく振る舞う必要はありません。気がつくということが大事なのです。気がつけば覚悟が出てきます。この覚悟は人生を諦めることではありません。五木寛之は諦めることは「明らかに究めることだ」と言っています。そうすれば何があっても、何が起きてもオロオロしてうろたえることはないのです。死に直面したときは、ためらうことなく意識のエネルギーを最高にためて、虚空の世界に旅立てるよう準備をしておけばいいのです。
縁に生きる
人間の悩みが「生・老・病・死」にあるというのは釈迦が言ったとおりです。その人間が営む社会の物事には「因果関係」があると思われています。「善因善果」「悪因悪果」というように、必ず「因」があって「果」があるわけです。病気や怪我、人との出会いと別れなどどれをとってもそうでしょう。それはそうなのですが、必ずしもそうならないのが現実の世の中です。つまり因果律では説明できないものが多くあるということです。だから「思うに任せぬ」というのだと思います。
ここにはドストエフスキーの「地下生活者の手記」に登場する主人公がいっていた『二二が四」の論理があります。というよりは、釈迦がドストエフスキーの発生以前においてこれを意識していたという事実に驚かされると同時に、私は天才としかいいようのない釈迦の啓示を感じます。
私は人の出逢いや物事の結果は「因果」ではなく、実際には「縁」によって決まることが多いのではないかと思っています。理屈や道理では割り切れない不思議なもの、それが「縁」かも知れません。人間はこの得体の知れない「縁」というものを、時々「運命」とか「宿命」とかいう言葉で説明しようとしています。これを信仰という形で解明しようとしているのが宗教家で、小説という形で解明しようとしているのが作家なのでしょう。私は宗教家でも作家でもありませんが、因より縁にこだわる人間のように思います。
境野勝悟先生が『禅に学ぶ人間学』の中でこんなことを言っていました。
ある人間が東大を受験したが落ちてしまった。一般的には実力がなかったからというのが理由です。でもそれは実力がなかったのではなく、「縁」がなかったから落ちたのです。要するに、東大を受験したという「因」はあったが、「縁」がなかったので、「果」に結びつかなかったというだけの話なのです。境野先生は「そう考えると、とても気持が楽になりますし、世の中がまた違って見えてきます」と言っています。
この「縁」というのは調べてみますと、中国の「中庸」の思想から来ています。最近は少なくなりましたが、かつて日本の家屋にはどこの家でも「縁側」というものがありました。これは家の中ではなく、外でもない。その中間にあって十分に雨露をしのげる場所でした。昔から、人々はこの縁側に座って茶飲み話をしながら「縁談」をまとめたのです。だから、結婚話を「縁談」と言い、「因談」と言わないのは、こうした理由からだと思います。
五木寛之は、この中庸の思想を「いい加減」と言っています。「いい加減」というのは昔からネガティブな意味で使われることが多いのですが、「よい加減」「ちょうどいい加減」という意味で、人が入るお風呂の温度が、まさに「いい湯加減」なわけです。
人間は努力しても報われません。生まれながらにして不平等で、不公平です。しかもこれだけ頑張ったのだから、これだけお金持ちになれる、これだけ幸せになれるというものでもありません。因果律にこだわると、人間がとても窮屈になります。
でも「縁に生きる」ということは「因」を放棄することではありません。因は一つのアプローチだと思えばいいのです。私が大勢の人と知りあえたのも新聞という「因」があったればこそでしょう。
「縁は異なもの奇なもの」とも言います。人と人とのめぐり逢いが、まったく偶然の組み合わせによる「拾い物」だとすると、あなたは、私にとってどんな「拾い物」になるのでしょうか? またあなたにとって私はどんな「拾い物」になるのでしょうか? 人と人の関係は実に奥深いものだといわなければなりません。
朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり
二〇〇五の正月、私は次のような年賀状を書きました。
昨年、知人である洋画家の杉山勇先生が八十八歳の米寿展を開きました。定年退職から毎年続けて二十八回目の個展でした。その先生が最近の心境をこう話されています。
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可也」。
ご承知の通り『論語』に出てくる言葉の一説です。作家の埴谷雄高氏が、カントの先験的弁証論「純粋理性批判」を指して、「『晨に道を聞けば、夕に死すとも可なり』とはかくのごときものか」と言っています(『あまりに近代文学的な』)。彼は思想犯として豊多摩刑務所に拘置されていたときカントに出会い、まさに「夕に死すとも可なり」の衝撃を受けたと書いているのです。
埴谷氏の文章に触れた私はまだ学生でしたが、カントの先験的弁証論より、この「晨に道を聞けば…」の言葉に心を奪われ、訳もなく身動き出来なくなっている自分を感じていました、それから三十数年後、洋画家の杉山勇先生からこの言葉を聞き、改めて調べ直したところ、出自が『論語』であることを知りました。
「朝に道を聞かば…」とは、もし自分がこの世の中の真理を朝一番に聞いたなら(理解したなら)その日の夕方にこの身が滅んでしまってもかまわないという意味で、孔子にとっては、究極の真理の追究が人生の目的なので、その目的が達成されたなら、それ以上生きている必要はない、ということです。つまり人の道をきわめることの難しさを説いたものです。杉山先生は六〇歳まで教師をつとめました。定年退職後、画業に専念し、その年から個展を開催して一度も休むことなく二十八回目を迎えたのです。この間、子弟の教育、大潮会の審査委員をつとめるなどまさに米寿にして、画業をきわめる齢に達したのでした。
ところで、「朝に道を聞かば…」を調べていたら、『論語』に「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」とありました。なるほどと妙に納得してしまいました。
私のように文章を書く仕事をしていると、さまざまなところで間違いを犯します。自分で書いたものがプリントされてきて、誤字脱字を発見すると「シマッタ」と思うと同時に、文章としての価値が音をたてて崩れていく姿を想像して唖然となります。まるで公衆の面前で恥をかいたような気分で、しばらくはどうしようもなく落ち込んでしまいます。誰も気がつかなければいいなと思ってしまいますが、そんな時に限って「この字間違っていますよ」と指摘されるので、誤魔化したりやりすごすわけにはいきません。特にこちらの間違いを承知して黙っていられると、もうたまりません。隠れるどころか消えてしまいたい心境にさえなります。
最近まで「こんなことも知らなかったのか」「えっ、この字はこう読むのが正しいのか」と思うこともしばしばです。無知な自分にただ恥入るばかりですが、「自らの無知を自覚することが真の認識に至る道」(ソクラテス)などと自分を慰める次第です。論語も同じようなことを言っているわけですが、なかなか平静ではいられません。
私の主治医である大和成和病院の心臓外科部長の南淵明宏先生が、知ることについて朝日新聞に連載した「カルテの手記」で次のようなことを書いていました。
「知不知(知らざるを知る)」という言葉があります。自分が知らない、知識がないということを自覚するという意味です。次に「知未知(いまだ知られざるを知る)」はどうでしょう。これは誰もその答えを知らないという事実を認識することです。では「知無知(知らるるが無きを知る)」はどうでしょうか。これは「生命の仕組み」など、地球上のだれも想像すらできないような概念があることを認めることです。
私は南淵先生に一度この言葉の出典をたずねたことがありましたが、そのとき先生は、文章で見たわけではなく、自分の岳父が中国のお坊さんで、相当な博識があって、彼が諸葛亮孔明の言葉として教えてくれたと話してくれました。諸葛亮孔明が呉の孫権と同盟を結ぶために交渉に行ったとき、文官を目の前にして演説をするわけです。「どうして劉備玄徳と同盟するのに利があるのか」、そのときに言った言葉の中に「知不知・知未知・知無知」が含まれていたというわけです。
私はこの言葉に出会った時、「う〜ん」と唸ると同時に溜息が出て、「知不知」「知未知」という言葉を何度も繰り返していました。諸葛亮孔明(中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・武将・軍略家・発明家)、まさに恐るべしです。私はそのとき、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可也」とはかくのごときものかと思ったのです。
そして自分の「無知」は「知無知」ではなく「知不知」であるということを深く認識させられたのでした。もちろん「知未知」「知無知」は、いまだおよばざるがごとしです。(2006・5・13)
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