厚木の大名 <N06>

相摸国内関宿藩領の村々と検地    平本元一

浅利信種墓碑拓本(左表面・右裏面)
前号まで下総関宿藩及び藩主久世氏及び牧野氏の系譜について見てきたが、この号では厚木市域の旧村々及び周辺の村々の関宿藩領について見てみることにする。
 久世氏は県内に小田原藩に次ぐ規模の所領を有していたという。寛文3年(1663)の広之の老中就任から天和3年(1683)重之の備中庭瀬への移封までの20年間である(『神奈川県史』通史編2近世(1))。
 寛文4年4月5日〜8日、江戸幕府は開幕以来始めて全大名に一斉に領知判物・朱印状と目録を交付した。
 「寛文印知集」(寛文4年・1664)では、領知目録として相摸國では「高座郡之内貮拾四箇村」のほか、愛甲郡之内 貮拾三箇村(村名は省略)高四千四百五拾四石 大住郡之内 酒井村 高百三拾八石五斗七升が書き上げられている。ここで愛甲郡内とされた23ケ村は正しくは津久井領であり、主に相模川右岸の津久井郡内の村々であった。大住郡之内酒井村は現厚木市酒井である。
 次に、牧野氏の所領であるが、厚木市域の村名を『新編相摸國風土記稿』から抽出してみると、厚木村(元禄12年成春に賜う)、林村(元禄の頃は成貞領分、元禄12年成春検地)、妻田村(元禄年中成貞に賜う、元禄12年成春検地)、及川村(成貞に賜う、元禄12年成春検地)、三田村(元禄11年成春に賜う、元禄12年成春検地)、上荻野村(元禄13年成春に賜う、元禄13年成春検地)、中荻野村(元禄13年成春検地)、下荻野村(元禄13年成春検地)、飯山村(元禄の頃成春領分、元禄12年成春検地)、川入村(元禄13年成春に賜う、元禄13年成春検地)、棚沢村(元禄11年から宝永2年成春領分、元禄13年成春検地)の十一ケ村に及ぶ。
 成春の愛甲郡内における検地は家臣の曽雌常右衛門の指揮によって行われた(「厚木の大名」NO5)。
 愛川町三増に曽雌常右衛門が再建したという淺利右馬助信種の墓石が残っている。永禄12年(15696)武田信玄と小田原北条氏との「三増合戦」において、信玄の重臣であった浅利右馬助信種が討死する。信玄は信種の遺骸を埋め、墓を築かせが、この墓碑を元禄13年(1700)曽雌常右衛門が再建したという。この後、寛政元年(1789)村民がこの墓所から小瓶を掘り出し、信種の遺骨として新たに碑を建て浅利明神と名づけたと伝えている(『新編相摸國風土記稿』『相摸人国記』)。
 また、弘化3年(1846)豊前国中津藩(大分県中津市)島津良介定恒が、『甲陽軍艦』の古跡を訪ねた時の紀行文「甲鑑戦跡紀行」に「(上略)淺利式部ノ冢アリ、淺利之墓所ト五字ヲ題ス、碑陰ニ三増合戦場曽雌源知義記ト云々、知義ハ俗名常右衛門ト云シ人ニテ地方改ノ時淺利氏戦死ノ地ナル由ヲ聞テ此碑ヲ建ト云(下略)」と記されている(『厚木市史』近世資料編(3)文化文芸)。
 現在、この二つの碑はゴルフ場脇の山中の一角に移されており、一基は剥落が目立つが正面に「淺利墓所」、裏面に「曽雌源知義」が見られ、もう一基は塔身正面に七字の梵字(聖観音真言)、右面に「淺利古墳」、左面に「寛政元己酉年」と台石正面に「施主三増村中」が刻まれている。
 愛甲郡内の牧野氏の支配期は元禄11年(1698)から宝永2年(1705)までの8年間であり、検地を指揮し現地と深い関わりを持った家臣曽雌常右衛門という人物を通して、関宿藩と厚木市域の村々の関係が裏付けられる。
 二つの碑は、ゴルフを楽しむ人々の歓声を聞きながら、合戦があったことなど嘘のように今も静かに佇んでいる。 

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