4  毛利季光(1202〜1247)            鎌倉時代の武将

毛利元就の祖先

 宝治元年(1247)6月5日、辰の刻(午前8時頃)には小雨となった。この日、鎌倉幕府成立以来の有力御家人、三浦・安達両氏の対立は極限に達し、ついに安達景盛らは兵を発して三浦泰村方を攻撃した。
 戦端のひらかれたことを知った北条時頼は、三浦氏との和平の道をさぐっていた態度を一変させると、泰村討伐軍を発したのである。
 天福元年(1233)、執権政治体制下における重要政策の評議決定にあたる関東評定衆の一人となっていた毛利季光は、甲冑に身をかためると、兵を率いて幕府方にはせ参ずべく準備を整えていた。季光の女子のうち、一人は延応元年(1239)に北条時頼の妻となっていたし、幕府体制の中枢に身を置く自分の立場を考えれば当然の成り行きであった。

毛利季光の墓(鎌倉市)

 ところが、いざ出陣の時になって、事態は思わぬ方向へ急転回する。妻が、出陣しようとする季光の鎧の袖を引き止め、「若州(三浦泰村)をすて、左親衛(北条時頼)の御方に参ずるの事は、武士の致すところか、はなはだ年来の一諾を違えおわんぬ。なんぞ後聞を恥ざらんや」と、三浦氏に味方することをせまってきたのである。季光の妻は前夜、密かに兄である泰村邸を尋ね、夫が味方するよう諌めることを約束していた。『吾妻鑑』には「毛利入道西阿、不慮に同心せしむるの間、誅罰せられおわんぬ」とあるように、三浦方についてしまった季光は、源頼朝の墓所がある法華堂で、一族とともに自刃して果てるのである。
 建仁2年(1202)大江広元の四男として生まれた季光の生涯には、いくつかの人生の節目があった。建保4年(1216)には、父の広元が中原姓から大江姓に改姓する。季光も大江姓となって、翌五年には従五位下に昇進した。さらに建保七年、季光は出家して「西阿」と号するが、これは将軍実朝が殺害されたことを悼んでのことであるといわれている。中原から大江に姓を改め、のち出家して「西阿」と称した季光は、やがて「毛利」の姓を名乗ることになる。『吾妻鑑』では、承久3年(1221)の「承久の乱」に関する記述に「毛利蔵人大夫入道西阿」とあり、『承久記』には「森蔵人入道」などとあるのが毛利姓の初見である。
 季光が名乗った「毛利」は、現在の厚木市域から津久井方面にかけてひらかれた庄園名であり、平安時代末期から鎌倉時代にかけて森冠者(陸奥六郎義隆)・毛利太郎景行などの武将名が資料に登場する。季光は、和田義盛の乱でほろんだ毛利氏や愛甲氏にかわって、毛利庄の領有権を得たことによって、自らの姓を「毛利」と改めたのであろう。
 毛利庄と鎌倉とのつながりは深く、「法然上人行状絵図」に記された「西阿が住所、相模国飯山(厚木市)」にある金剛寺は、将軍の御願寺である鎌倉五大堂明王院と関係があり、鶴岡八幡宮近くには飯山両社権現がまつられていた。明王院が建立されたのは、季光の所領である大倉の地であり、明王院の山号「飯盛山」は、飯山観音入り口近くにあった飯盛山と何か関連があるように思えてならない。
 宝治合戦で三浦方についた季光は、この日、一族と共に死の時をむかえる。有力御家人三浦氏から妻を迎えたことが、逆に季光の運命を追いつめる結果となってしまったのである。専修念仏者であった西阿は、法華堂に集まった諸衆に勧め、一仏浄土の因をねがって、法事讚を唱えあげた。
 『吾妻鑑』には季光の子息たち「兵衛大夫光廣・次郎蔵人入道・三郎蔵人」と吉祥丸の一族が「自殺・討死」したと記されているが、一人四男の経光だけは越後国にあって、この難をのがれることができた。経光によって毛利の姓はかろうじて保たれ、越後国佐橋庄(新潟県)と、安芸国吉田庄(広島県)の地頭職が安堵される。
 この毛利氏が、のち吉田庄で戦国大名として名をはせる、毛利元就を生むことになるのである。