暴力団綱領         市民かわら版編集長 山本耀暉    

 昭和60年頃だと思う。ある日「S」と名乗る男から電話がかかってきた。「S」と言ってもどこにでもあるありふれた名前だ。声の調子から判断しても相手が誰だか一向に思い浮かばない。
 「どちらのSさんですか」
 と問い直すと、私の知り合いから紹介を受けて電話したという。
 「実は頼みたいことがあるんです。早速で申し訳ないのですが、これからお会い出来ますか」
 <何だろう>と思って、早速、指定されたコーヒー店に足を運んだ。私が10分ほど早く着いて中で待っていると、店の前にマリンブルーのBMWが停まった。中からクリーム色のダブルのスーツを着た男とサングラスをかけて開襟シャツを着た若い男が降りてきた。
 「山本さんですか」
 「そうです」
 互いにあいさつを交わし、名刺交換をした。
 その名刺には「○○○○」という社名が書かれてあった。私はその名前に見覚えがあった。市内にある金融会社である。S氏はその会社の代表取締役だった。坊主頭のS氏は柔和な顔をしていて、なかなかの紳士だった。だが、眼孔が鋭い。S氏は、ひとしきり自分の会社のことを説明すると、思いも寄らぬことを話し出した。
 「実は山本さん、私は組の人間でして、『E組』って聞いたことあると思いますが、そこの若頭(ナンバースリー)なんですよ。若頭といっても組の台所役を押しつけられて、金を作るのが仕事なんです。こいつらに飯を食わせなきゃならなくて……、組といっても経済的にはなかなかやりくりが大変なんですよ」
 S氏は私の目を見ながら、目に笑みを浮かべながら穏やかに話しを続けた。
 <やくざのお兄さんが私に何の用事なんだろう>
 S氏の話を黙って聞いていた私は、心の中で<これは厭な人種に出会ってしまった>と思った。
 E組は稲川系の暴力団で、厚木、平塚、伊勢原など県央地区を拠点にシマを張っていた。組長は現在、病気で入院しているという。1ヵ月ほど前組長に呼び出されたS氏は、E組の「綱領」を作れという命令を受けたのであった。
 「組長に作れといわれてもねえ、私らみな武闘派なんだから、そんなの作れっこない。それでKさんに相談したら、市民かわら版の山本さんが適任だと紹介されましてね、それで電話したわけなんです」
 S氏はそういうと、ポケットから1枚の紙を取り出して私に見せた。それには「山口組綱領」と書かれていた。
 「これを参考にして何とか作ってもらえませんか」
 私はその紙をじっと見つめながら、どう返事したものかと考えあぐねていた。もし断ったらどうなるだろう。しかし、安請け合いをして後でトンデモナイことにでもなったら大変だ。できることならお断りしたいが、とてもそんな返事ができるような雰囲気ではない。ヤクザに自分が試されているような気もした。一瞬迷った末、私は次のような返事をした。
 「Sさん、わかりました。ご期待に添えるかどうか分かりませんが、できるだけやってみます。もし出来なかったらその時はご勘弁願いたい」
 「わかりました、それでいいですよ」
 S氏はポケットから現金を取り出すと、「これは手付け金だから取っておいてくれ」と言って、1万円札を5枚ほど差し出した。
 「Sさん、報酬は出来てからで結構です」
 先に報酬をもらうのはまずいと思ったが、相手はヤクザである。私は受け取るのを固辞したが、1度出したものを引っ込めるような相手ではないし、現金だからそのままにもしておけない。S氏には「お預かりします」と言ったが、受け取ってしまえば、やることを約束したようなものである。私は覚悟を決めた。
 S氏は「綱領」のほかに組員の行動指針ともいうべき「組員細則」も作って欲しいと頼み、何日後にできるかと聞いたので、「3週間ほど時間をいただきたい」と返事すると、手帳を見ながら次に会う日を約束して、帰って行った。
 <大変なものを頼まれたなあ>
 私は気が重くなるのを感じていた。だが何とかしなくてはいけない。私は頭の中で仕事の手はずを考え始めた。綱領とはE組の憲法である。いわば日本国憲法を作るのと同じだ。E組というヤクザにふさわしく勇猛果敢、獅子奮迅の精神で、格調高く組を鼓舞するものでなければならない。
 綱領には帝国陸軍の「戦陣訓」と戦前の「教育勅語」、細則には陸軍の「作戦用務例」が頭に浮かんだ。「戦陣訓」と「作戦用務例」は私が学生時代、古本屋で買い求めたものが書棚のどこかに眠っているはずである。後は図書館で借りればいい。
 次の日の午前中、私は市の中央図書館にいた。私は暴力団やヤクザ、任侠もの、右翼関係の本をかたっぱしから探し出し、5冊ほどを借りて家に帰った。
 その日は1日中、ヒントになるものを探し出そうと、本を読みあさった。やはり参考になったのは「戦陣訓」である。
 私はワープロに向かうと、7項目ほどの文章を漢文形式にまとめた。その時使ったワープロのフロッピーはとうの昔に捨ててしまったので、何をどう書いたのか忘れてしまったが、我ながら出来栄えはまずまずだったと思う。
 約束の日が近づいてくると、S氏は電話をかけてよこした。
 私は書き上げた文章を持参して、出かけた。
 約束したコーヒー店で待っていると。S氏と若い男が、今度はベンツに乗って現れた。
 私はプリントアウトした文章を広げてS氏に差し出した。
 それを受け取ると、S氏は黙って目を通し始めた。私は息を殺すようにしてその表情を見つめていた。やがてS氏は口を開くと、意外なことを言い出した。
 「山本さん、漢字にフリガナをつけて、下に意味を書いてくれませんか」と言って、隣の若い衆に顔を向けると「うちの連中は馬鹿ばかりだから、漢字が読めないんですよ。読んでも意味がわからないしね」
 「はあ…、わかりました」
 私はS氏の顔をまじまじとながめ、内心ほくそ笑んでいた。私が書いた綱領は、少しばかりの国語力では、正確な読みや意味を解釈するのには骨が折れる内容だった。綱領だから意識的に難しくした方がいいと思って、そうしたのだが、書いた本人でさえよく考えないと説明に窮してしまうところがあった。ルビをふらなかったのは正解で、私はS氏に対してにわかに優位な立場に立ったような気がした。
 S氏はいつできるかと聞くので、3日後にと約束してその場を別れた。
 約束の3日後になると、電話がかかってきた。
 S氏は、いつもご足労かけて申し訳ないので、今日は、こちらの方から伺うという。私は家に来られては困るので、こちらから伺いますと言ったが、押し問答で叶う相手ではない。正直言って困ったが、返事をせざるをえなかった。それからしばらくしてS氏は約束の時間ちょうどに現れた。
 配下の若い男に大きな紙包みを持たせている。
 「山本さん、ケーキを買ってきたので、子どもさんにでも食べさせてよ」
 と言うと、大きな箱を差し出して、私に手渡した。後で箱を開けてみたら、何とケーキが20個も入っていて驚いた。
 私はS氏にフリガナと意味をつけた文章を渡すと、おもむろに一つひとつていねいに説明していった。学校で漢文の授業を教えるようなものである。S氏はうなずきながら黙って最後まで聞いていた。分かったのか分からなかったのかは定かではない。
 「山本さん、ありがとう。これで組長に怒られなくて済むよ」
 S氏はニコニコしながらそう言うと、これを京都のある偉い書家の先生に頼んで、書いてもらう手はずになっている。それを額装にして組事務所に掲げ、若い衆にはこれをカード形式に印刷して携帯させるのだと話していた。書家の先生への謝礼は数100万円もするのだという。
 S氏は「これから早速、組長に届ける」というと、ポケットから紙封筒を出して、お礼だと言って置いていった。中を開けると、5万円が入っていた。手付け金と合わせて10万円が私への謝礼である。書家の先生が数100万円で私がたったの10万円。天地驚愕ほどの開きがあるではないか。私は無名の編集者に違いないが、何だか割り切れない気持ちになった。
 それを友人に話したら、「おまえは商売が下手だからそうなるんだ。その時、何で俺に連絡して来なかった。相手は金があるんだ。俺だったら、少なくとも、その書家の先生と同額をもらってやる。その書家はおまえが考えた文章をただ書くだけじゃないか。日本国憲法を考えた者が、憲法を書で書いたものより報酬が少ないなんてそんな馬鹿な話はない」
 何とも大袈裟ではあるが、友人は自分のことのように憤慨していた。
 2、3日すると、またS氏から電話がかかってきた。この間のお礼である。話の内容は組長がえらく気に入って、私に直接会って一言お礼を言いたいというのである。これ以上の深入りは避けたいと思っていたので、その時ばかりは「お気持ちだけで十分です」と丁重にお断りした。
 その時、S氏は「山本さんには大変お世話になった。組長に対する私の株も上がったし、これも山本さんのお陰だよ。何か困ったことや相談ごとがあったら、24時間いつでも構わないから電話してきてください。夜中でもいいです。必ず力になります」と言ってくれた。私は「ありがとうございます」と言って、電話を切った。
 その後も、S氏から2、3度電話があった。綱領を作ったのが縁で、これからもつきあいが続くのかと思うとうんざりしたが、相手が相手なので嫌な顔をするわけにはいかないし、断るわけにもいかない。話の内容は組長の家紋が何だか分からないので、調べてほしいというものであった。
 私は沼田頼輔の『日本紋章学事典』などを使って調べたが、あいにく組長の家紋は出ていなかった。2度目の電話の時、「調べたが、分からない」と答えると、それっきり電話をかけてくることはなかった。
 その後、親しくしているS議員と宴席を共にしたときである。その議員は自分の同級生であるといって県警本部捜査4課(企業暴力団担当)のN氏を紹介してくれたことがあった。N氏は刑事とはいえ、見るからに粗っぽい感じで、ドスのきいた低い声で話すのでどちらが暴力団の組員か分からないほどの風貌である。S議員も「ヤクザの方が逃げて行くよ」と言って私を笑わせていた。
 その席で、たまたまS氏の話が出た。私はE組の「綱領」を作ったという話は伏せて、S氏のことを話すと、N氏は「奴が何か迷惑かけたら、山本さん、いつでもいいから電話をしてきてください」と言ってくれた。
 私は何だか複雑な気持ちになった。S氏からは「何か困ったことがあったらいつでも力になる」と感謝され、S氏を取り締まる刑事からは「何か迷惑かけたらいつでも言ってきてくれ」と言われ、まるでお抱えの用心棒をやとっているような気持ちになった。
 もちろん、お2人共に世話になることはなく、月日が過ぎていった。
 ある時、新聞の地域版を見ていたら、「暴力団幹部、宮ヶ瀬ダムで他殺体で発見」という見出しが目に飛び込んできた。記事を読むと、S氏が組の内部抗争で宮ヶ瀬ダムの虹の大橋から早戸川の河原に突き落とされ、死亡していたという内容だった。新聞記事からは殺されて橋の上から遺棄されたのか、生きたまま橋の上から投げ落とされて死亡したのかは分からなかった。
 暴力団同士の内部抗争とはいえ、命を落としたS氏のことを思うと、やはり心が痛んだ。柔和だが、眼孔鋭く紳士然としたふるまいを見せていたS氏の顔が浮かんでは消えた。
 平成4年3月、「暴力団対策法」が施行された。暴力団の威力を示して不当な要求行為を行うことを禁止したため、風俗店や飲食店に対して、「面倒を見てやる、何かあったら話をつけてやる」などと用心棒代を要求したり、出店する際のあいさつ料やみかじめ料を要求することができなくなった。S氏が私に「何か困ったことがあったら力になる」と言ってくれたのも、そうしたたぐいの金品を前提としたものであったのだろう。
 暴対法ではしめ縄、植木、おつまみ、パーティー券などの購入、おしぼりや額縁などのリースの受け入れを要求することもできなくなった。暴力団にとって飯の種が著しく制限されたのである。E組も組を維持していくことが徐々に困難になり、噂ではその後別の組の傘下に入ったとも聞いている。
 あれから20年以上の時が経過した。「E組綱領」と「組員細則」がどんな内容だったか覚えてもいないが、私のつくった綱領は今でも組の事務所に掲示されているのか、少しばかり気になるところである。(2007・8・9) 

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