88  柳田謙十郎(1893〜1983)        哲学者

西田哲学からマルクス主義へ

 明治26年(1893)11月、柳田謙十郎は神奈川県愛甲郡南毛利村(現厚木市)愛甲650番地に生まれた。父の柳田勘作は南毛利村村会議員を長くつとめ、助役や収入役にもなった。また家は一町数反(約1.5ヘクタール)を耕す農家であった。
 しかし、謙十郎は農家の長男として生まれながら、やがて家を出て学問を志す道を選ぶことになるのである。明治41年(1908)神奈川県師範学校に入学。大正2年(1913)には愛甲郡高峰小学校訓導に任ぜられた。
 「わが思想の遍歴」(『自叙伝』)ではこの高峰小学校時代を振り返り、「自分の全生涯の大分を教育者としてすごしてしまったのであるが、この何十年にわたる小学校教師から大学教授までのあらゆる教員生活を通じて、いちばんたのしかった時代といえばやはりこの高峰小学校訓導の2カ年間であったろう」と述懐している。

柳田謙十郎(『自叙伝』)

 大正3年1月、結婚した謙十郎は妻とともに実家に同居し、往復20キロ近い道のりを自転車で高峰小学校へ通った。
 その愛甲の実家での新婚生活は1年ほどで終わりを告げる。謙十郎の学問に対する探究心、また妻と必ずしも円満とはいえなかった家族関係が、鎌倉への転居を決意させたのである。以後、神奈川県師範学校付属小学校訓導、津久井郡協心小学校訓導兼校長、岡山県師範学校教諭、岩手県師範学校教諭などをつとめ、大正11年(1922)4月には京都帝国大学文学部哲学科選科に入学した。
 京都帝大入学は、柳田謙十郎の人生における1つの決断と転機でもあった。
 『自叙伝』の序には、生涯における3つの決断が次のように述べられている。「私はもともと気の小さいくせに、時々無茶とも大胆ともいいつくせないようなむこうみずなことを思いきってやるくせがあります。私の過去の生涯の中でその代表的な場合が3回ほどありました。その第1は1922年28歳のとき、教員をやめて京大選科の入学試験を受けたときであり、第2は1936年何の生活の保障もないままに台北帝大を辞職して京都に帰ってきたときであり、そして第3は一生涯の精神的よりどころとして来た西田哲学を捨ててマルクス主義唯物論者となったときでした。」
 昭和11年、謙十郎は論文「知と行」によって西田幾多郎の知遇をうける。昭和20年に謙十郎が文学博士の学位を受けた翌21年には、『西田哲学体系』全12冊の著作刊行が始まるのである。足かけ3年をかけた『西田哲学体系』刊行に合わせ、昭和22年5月には大宮市吉敷町の自宅で「参道塾」と名付けた西田哲学ゼミを毎月1回開講している。
 そして『西田哲学体系』完成からわずか2年あまり後、第3の転換である「唯物論者」への道を歩むことになるのである。
 『唯物論十年』のロシア語版あとがきには「柳田謙十郎は日本におけるすぐれた社会活動家であり、先進的な学者であるが、すでにいままでに2冊の書『わが思想の遍歴』および「自由の哲学」によって、わが国ソビェトの読者の間には有名になっている。長年のあいだ観念論者であった彼は、日本の社会生活と世界情勢の巨大な変化の中で、1950年に、観念論から唯物論に移ることを公然と声明した」と記述されている。
 昭和58年(1983)1月16日、日中友好協会会長、労働者教育協会会長等を歴任した柳田謙十郎は90歳の生涯を閉じる。
 昭和42年から刊行された『柳田謙十郎著作集』全8冊には、『唯物論の哲学』『倫理学』『宗教論』ほか数多くの著作が収められているのである。