横浜事件の人々        市民かわら版編集長 山本耀暉  

 「横浜事件」と聞くと、私には忘れられない2人の人物がいる。1人は元大学教授の平舘利雄先生。もう1人は元中央公論編集長の藤田親昌さんである。戦時中、2人とも神奈川県特高警察により、共産党再建を企てたとして治安維持法違反容疑で検挙され有罪判決を受けた。

 平舘先生は私が大学1年の頃、経済学部の教授として計画経済論を講義していた。小柄ですでに頭が禿げ上がっていたが、大学では経済思想史を教えていた内田義彦先生とともにマルクス経済学の第一人者であった。1968年頃である。平舘先生の講義は『経済概論』だったように記憶しているが、『ソ連工業の労働生産性』や『ソヴィエト計画経済』などの一端も勉強した覚えがある。
 当時は学園紛争が終息に向かいつつある時代で、経済学の分野ではマルクス経済学よりは近代経済学が主流になりつつある時代で、全共闘世代といわれた学生たちも大なり小なりマルクス主義をかじってはいたが、学生運動にのめりこんでいる左翼学生を除いてはマルクス経済学の人気はいまいちだったように思う。それは社会主義国家ソ連がノーベル文学賞を受賞したソルジェニツインの自由を剥奪し、チェコスロバキアなど自由化を模索し始めた東ヨーロッパの社会主義国を弾圧するという社会帝国主義が世界的な批判を浴びていたからでもあった。ソビエト国内においては官僚制度の硬直化による社会主義経済の行き詰まりも指摘されていた。
 私は大学のゼミでは経済政策論を専攻していたので、マルクス経済学のテキストをゼミの教科書として使うことはなかったが、個人的には初期のマルクス、エンゲルス、レーニンの書物を読みあさっていたので、平舘先生には特別な親近感を抱いていた。横浜事件の被告だったことは卒業した後で知ったが、1983年頃、草柳大蔵氏の『満鉄調査部』を読んでいて、平舘先生が満鉄調査部出身だったことを知り二重に驚いた覚えがある。

 横浜事件の中心人物は、社会評論家の細川嘉六氏であった。細川氏は、読売新聞記者を経て、大原社会問題研究所研究員として米騒動、植民史・国際情勢の研究に従事、昭和の早くから言論界をリードしてきた。第一次大戦後は、日本を代表する「改造」や「中央公論」などの総合雑誌に次々と論文を発表、アジア民族の自立を尊重し、アジア全体が安定することを説いていた。この細川氏に警察が目を付けたのである。
 1942年7月、太平洋戦争開戦の翌年である。細川氏は、総合雑誌「改造」に「世界史の動向と日本」と題する論文を発表した。55頁にもおよぶ論文にはアジアの民族と友好関係を保っていかないと国は滅びると書かれており、暗に日本の侵略政策を批判する内容だった。これが国の検閲をパスして掲載された。ところが、陸軍は細川氏の論文を共産主義の宣伝と称して激しい攻撃を加えたのである。警視庁は9月14日、細川氏を出版法違反容疑で世田ヶ谷署に検挙した。細川氏に対する最初の言論弾圧である。
 それから半年も過ぎた1943年5月、満鉄東京支社に勤務する西沢富夫さんと平舘利雄さんが検挙されたのである。この検挙の際に押収された一枚の旅行写真が横浜事件を決定づけたといって良い。その写真は細川氏が「改造」や「中央公論」の編集者たちを故郷の富山県泊町に招待した1年前の出版記念の写真で、平舘さんら7人が写っていた。
 平舘さんらの泊旅行を特高が知ったのは、1942年9月1日、外務省の外郭団体、財団法人世界経済調査会資料課主任の川田寿氏の検挙がきっかけだった。特高は川田氏の妻定子さんも検挙して、凄惨な拷問を加え、在米時代に共産主義運動に関わり、帰国後に旧同志と連絡を取って共産主義運動を企てたとでっち上げたのである。翌年1月、川田寿氏の兄ら7人を検挙し、合わせて「米国共産党員事件」を仕立て上げた。
 特高は、検挙した中の世界経済調査会嘱託の高橋善雄さん(拷問のために獄死。横浜事件では4人が獄死したが、最初の被害者である)から、同調査会主事で、平舘さんとも交流のあった益田直彦の話(泊温泉行きに誘われたが、防空演習のために参加できなかったという話)を引き出し、それをもとに共産党再建準備のための「泊温泉会議」をでっち上げたのである(『横浜事件の人びと』中村智子)。
 特高は細川氏を共産党再建の領袖に仕立て上げ、『改造』や『中央公論』の編集者たちを細川への協力者と見た。細川氏を中心に共産党を再建するための秘密の会議が泊町で開かれ、会議の結果、共産主義を宣伝する論文を発表したという途方もない構想が一枚の写真を元に作られたのであった。細川氏が故郷に招待して開いた泊町の宴会は、「共産党再建準備会」として横浜事件全体を示す象徴的事件として捏造されたのである。
 平舘さんは特高から、泊温泉での集まりが、「国際共産主義運動組織コミンテルンの指示による共産党再建準備のための会議だろう」と責め立てられた。平舘さんは否定したが、遊興に過ぎなかった温泉旅行を、証拠もない共産党再建準備会に仕立てるには、拷問しかない。検挙されたその日の午後から凄まじい暴力が始まったという。 
 戦後間もなく平舘さんら被害者33人が元特高ら30人を、特別公務員暴行陵虐罪で横浜地検に共同告発した際、提出した口述書に拷問の一端が記されている。
 「両手を後手に縛り、竹刀を以って左右から両膝を交互に約30分間に亘り、打撃を加えました。私は激痛のため一時精神肉体共に虚脱、もうろうたる状態に陥り、前面にうつぶせになってしまった……私が意識を回復するや再び打撃を始め、またも約30分に亘って継続し…その間(特高の)松下係長が『お前のごとき国賊は殺してもかまわぬのだ!』と幾度か連呼すると、私の頭髪をつかんで畳の上をねじり廻したのであります。私の両膝は太腿に至るまで紫色になって腫れあがり、苦痛のため再び昏睡状態に陥った」
 同じ日に検挙された他の被害者も同じように拷問を受けたという。こうして毎日繰り返された拷問に屈し、平舘さんはついに虚偽の自白をし、泊温泉での遊びを共産党再建準備会と認めてしまった。神奈川県特高は「党再建準備会」を核にして、知人や友人や仕事関係者を次々結び付け、検挙者を増やし、事件を拡大していった。ジャーナリスト、官僚、大企業社員にまで特高の網は広がり、検挙は1945年5月ごろまで続いた。その関連で1944年7月、中央公論社と改造社が自主的廃業に追い込まれたのである。

 藤田親昌さんは戦時中、中央公論の編集長だった。1973年、筆者が大学を卒業してかけだしの記者をしていた頃、当時川崎市に住んでいた藤田さんに、「多摩の文学碑」というタイトルでミニコミ誌に一年間連載をお願いしたことがある。白髪の似合う初老の紳士だった。藤田さんは多摩区の細山の高台に屋敷を構えていたので、たびたびお邪魔していろいろなお話をうかがった。始め、私は藤田さんが横浜事件で検挙された被告人だということは知らなかったが、お会いしているうちに、横浜事件と藤田さんの関係を知ることになったのである。
 ある日のことだった。自宅を訪れた私に藤田さんは突然、横浜事件について話し始めたので驚いてしまった。「特高の拷問は筆舌に尽くしがたい」とその悲惨な取り調べの手口を訥々と話し始めたのである。藤田さんは1944年1月、共産党再建に力を貸したとしてまったく身に覚えのない容疑で旅行先の新潟県で神奈川県特高により検挙され、そのまま横浜市内の留置場へ入れられた。藤田さんと一緒に前編集長の畑中繁雄さん、出版次長長澤赳さん、旧社員小森田一記さん、青木繁さんも検挙された。
 最初の1週間は竹刀で殴られどおしだったという。「知らない」と言い張ると、ただでさえ少ない食事を減らされ、妻が差し入れた煙草や食べ物もほとんど届かなかった。拷問は竹刀、竹べらこん棒、麻づな、こうもり傘の尖端、靴のかかとを使うなどしてまさに筆舌に尽くしがたいもので、連日繰り返し繰り返し行われた。藤田さんは監房の中でその時の心境を次のように詠んでいる。
 大腿にはだらに残りし黒あざの 生血がにじむを静かに眺む
 検挙された多くの人たちは連日の拷問に加えて、横浜大空襲で生死の境をくぐり抜けかろうじて生き延びたが、1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して戦争に敗けたため事態は急転回した。判決が下ったのは終戦直後、即ち治安維持法が廃止される1ヶ月前の1945年8月下旬から9月にかけてである。横浜地方裁判所は公判と判決を1日で行う極めて異例のやり方で、写真に写っていた人たち、木村亨氏(中央公論」の編集者)、小野康人氏(雑誌「改造」の編集者)ら6人に有罪判決、最後まで頑として容疑を認めなかった中心人物の細川氏は起訴されず審理を打ち切る「免訴」になった。
 他の30人は8月末日までに出廷して予審調書をつくり、9月4日頃までには保釈出所した。一律に懲役2年、執行猶予3年の有罪判決であった。藤田さんは『言論の敗北』(三一書房・1959年6月)で、その辺のいきさつを次のように書いている。
 「20日頃、石川予審判事がきて、接見室に横浜事件の関係者を呼びだし、『なんとか妥協して、予審調書をつくらせてくれないか。悪いようにはしないから……』と懇願した。悪いようにしないということは、執行猶予をつけるということだったらしく、細川老人らは『執行猶予してやるから我慢せよという。それはだめだ。わたしは裁判所か国家があやまらない以上は、ここは死んでも出やせぬぞ』とがんばった」という。
 特高警察から拷問を受けた人々は1947年、細川氏を中心とした横浜事件被害者の会、ささげ会会員33人が、拷問に加わった特高警察官30人を横浜地方検察庁に特別公務員暴行傷害で告訴した。5年後、最高裁で3人の実刑が確定したが、拷問をした特高警察官は、この年のサンフランシスコ講和条約の発効に伴う大赦で釈放され1日も服役することなく釈放された。また判検事に対しては何らの処分もされていない。
 戦後の判決から40年が経過した1986年7月3日、事件の被害者は無実を訴え名誉回復を求めて再審請求を開始した。木村亨氏と平館利雄さんが中心となって第1次再審請求を起こした。この再審請求に対して裁判所は横浜地裁と東京高等裁判所は請求を棄却、1991年3月14日、最高裁判所は特別抗告を棄却した。
 棄却の理由は「裁判の記録が存在しない」というものである。裁判記録の保管は起訴した検察庁の責任だが、その記録がないからと裁判所は再審請求を拒んだのである。裁判記録はいったいどこへ消えたのか。それはGHQによる戦争犯罪の訴追を恐れた政府関係者によって当時の公判記録が全て焼却されていたからである。書類の焼却指示を出したのは内務省であった。その後、被告の遺族が再審請求に提出した証拠の「確定判決書」は、アメリカ国立公文書記録管理局(NARA)に保存されていた物の謄本(全文写し)である。
 裁判は最後はドタバタで形式的なものに終わった。被害者にとって訳の分からない判決を書かれたが、その判決さえも残っていないのである。再審の大きな壁になっているというのは不条理きわまりないといえるだろう。
 1994年、小野康人氏の妻貞さんが「横浜事件第2次再審請求」を行った。しかし、横浜地裁、東京高裁、最高裁は全ての請求を棄却した。その後小野康人氏の再審請求は、妻の貞さんが亡くなった後、子供たち2人が代理人となり受け継いだ。
 1998年、再審請求運動の中心人物、木村亨氏が無念の思いを残して亡くなった。木村氏が亡くなって1カ月後、木村氏の妻まきさんら被告5人の遺族が新たに「横浜事件第3次再審請求」を横浜地方裁判所に申し立てた。横浜地裁は2003年に再審開始を決定、検察官の即時抗告申立てに対して東京高裁は2005年3月10日、「拷問による取り調べで元被告が虚偽の自白をした疑いがある」として、検察側の即時抗告を棄却、再審の開始が決定した。
 他界した元被告人らの遺志を受け継いで再審を請求した遺族らは、「無罪の一言を聞くのはもちろん、なぜ横浜事件がつくられたのかを解明することが大事だ」と語った。これは再審が無罪を認めるだけではなく、治安維持法がどのような法律であったか、どれだけ多くの人がその害をこうむったのかを解明して、司法の犯罪と日本の戦争責任を明らかにすべき裁判であることを強調したものである。
 ところが、1審の横浜地裁は、2006年2月9日、「ポツダム宣言廃止とともに治安維持法は失効し、被告人が恩赦を受けたことで、刑訴法337条2号により免訴を言い渡すのが相当」と判決、裁判打ち切りを決定した。
 免訴というのは無かったことにするということである。実際には事実があったわけだが、それを勝手にやった側が無かった事にするというのである。これは殴られた人がいるが殴らなかったことにするというのと同じことである。
 控訴審の東京高裁では、免訴判決に対して無罪判決を求めて控訴できるかの法律論に終始し、弁護側が求めた事実審理は行われなかった。結局、2007年1月19日の判決公判では、免訴判決について「被告人は刑事裁判手続きから解放され、処罰されないのだから、被告人の上訴申し立てはその利益を欠き、不適法」として、控訴を棄却した。またしても退けられたのである。弁護団は即日、最高裁に上告した。
 上告審の最高裁判所第2小法廷は、2008年3月14日、「再審でも、刑の廃止や大赦があれば免訴になる」として遺族らの上告を棄却した。これによって再審手続きに法的決着がつけられる形となったが、第3次請求に関しては事件解明のための審理は行わなかった。
 2008年10月に開始が決定された第4次再審第1審の横浜地裁は、2009年3月30日、第3次最高裁判例を踏襲し、免訴を言い渡した。ただし、事件の被告が無罪である可能性を示唆した上で、「免訴では、遺族らの意図が十分に達成できないことは明らか。無罪でなければ名誉回復は図れないという遺族らの心情は十分に理解できる」と述べ、刑事補償手続での名誉回復に言及した。これを受けて原告側は控訴せず、今後は刑事補償手続きに移ることを明らかにした。
 そして本件に適用される旧刑事訴訟法での控訴期限である4月6日までに元被告・検察の双方が控訴しなかったため、免訴が確定した。2009年4月30日に第四次再審請求の元被告遺族が、刑事補償の請求手続きを横浜地裁に行った。遺族は、地裁が補償決定に際して事件が冤罪と判断することを期待すると記者会見で述べている。
 2010年2月4日、横浜地方裁判所は元被告5人に対し、請求通り約4,700万円を交付する決定をおこなった。決定の中で横浜地裁の大島隆明裁判長は、特高警察による拷問を認定し、共産党再建準備とされた会合は「証拠が存在せず、事実と認定できない」とした。その上で確定有罪判決が「特高警察による思い込みや暴力的捜査から始まり、司法関係者による事件の追認によって完結した」と認定し、「警察、検察、裁判所の故意、過失は重大」と結論づけた。再審で実体判断がおこなわれた場合には無罪判決を受けたことは明らかであるとして、実質的に被告を無罪と認定し、事実上事件が冤罪であったことを認めたのである。
 横浜事件は戦時下における最大の言論弾圧事件であったが、特徴的なのはそれ以前の言論思想弾圧事件が明確な「組織」的活動に対する弾圧であったのに対して、横浜事件では「組織」に属しない個人、一個の善良な職業人に対する弾圧であった点にある。最少限度の市民の自由と良心に対する暴力であった。明治以降の日本における言論思想弾圧の当初は、共産党(共産主義者)に対して集中的な攻撃が行われ、やがて共産党を壊滅に追い込むと、次には社会主義者、自由主義者に対して攻撃の手が移った。
 藤田さんは『言論の敗北』の中で、次のように記している。
 「われわれ国民の中には、市民社会としての思想と生活の連帯はなかった。個人主義と封建制が奇妙に同居していた。安全地帯はなくなった。重苦しい黒雲が日1日と深まり、窒息する空気の中で、くぐもり生きていた。ある日、われわれは、なんらの抵抗の組織を持たぬ、孤立分散した弱小な一市民である自分を見出した。一方には強大国家権力、一方には微少な一個人、たちうちできるわけがなかったのである。激流に流されまいと喘ぎもがくわれわれは、ひと網にすくいあげられ、たたきつぶされたのである」(『言論の敗北』)。
 さらに「大衆を守るべき組織の側にも問題があった。それは弾圧によるばかりでなく、その内部的弱さのために、国民の感情と生活の中に深く入り込み、これを広範に結集して具体的な行動を組織することができなかったのである。国民大衆の血肉となるような思想を行動の武器として確立することができなかったことである」(『同前掲書』)とも述べている。

 平館さんの長女道子さんは「心の中まで土足で入られた。しかも負けたんです。実際の所。人間にとっての屈辱ですね。一生引きずってきた」と父の半生を語っている。
 藤田さんは横浜事件の関係者として最も痛切に感じていることを一つだけあげるとすると次のことだと言う。
 「それは、われわれが組織を持たぬ善意だけによる、孤立分散した個人にすぎなかったということである」
 藤田さんは戦後、川崎市に移り住んでから環境問題や自由、平和を封じる動きに敏感に反応し、市民集会や市民運動を積極的に組織した。それは横浜事件の教訓から生まれたものだった。
 「世の中がおかしくなるときは、電気が暗くなるように少しづつ遠回しに替えられていく。おかしいと思ったときに、一人ひとりが声を上げていかなくては」(『かながわ100人の肖像』朝日新聞横浜支局編・有隣堂・1997年2月)。
 横浜事件のような言論が封殺される時代が再び来たとき、「権力の暴走を食い止められるのは庶民の力しかない」という藤田さんが、市民文化の向上に力を注ぐのは、そうした思いからである。
 藤田さんも、平舘さんもすでにこの世にはいない。横浜事件は冤罪であるという決定は2人に届いているであろうか。(2010年2月10日) 

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