風見鶏

2001.1.1〜2001.12.15

 文化の保存と行政(2001.12.15)

 厚木市の玉川公民館と玉川地区文化振興会が12月7日、公民館の敷地内で萱ぶき屋根づくりに挑戦した。ふるさとの伝統文化を再発見しようという事業の一環で、市内でただ一人の萱の吹き替え職人である三橋得二さんの指導を受けた▼公募の市民20人が、竹を使ってあずまや風の土台と骨組を作り、屋根に束ねた萱をのせて縄でくくりつけた。この萱ぶき屋根の建物でさまざまなイベントを行い、地元小中学校の子どもたちに中を体験してもらうという▼話は変わるが、こちらは飯山の古民家「志村邸」保存の話である。文化財保護審議会や市民グループが市に現物保存を要請したが、市では財政的な事情から保存しないことに決めた。12月議会の一般質問でも取り上げられたが、市は記録保存のみにとどめるという▼12月9日、現地で市民グループが自主的な保存に向けたフォーラムを開き、70人を越える市民が集まった。「解体に向け協力したい」という人もいて保存する会を喜ばせたというが、今後も解体・保存作業に向けて、資金や保管場所、作業人員の確保など難問が山積している▼玉川と飯山の例を見ると、文化財の保存と伝統文化の再生について行政のかかわり方に整合性がないことを示している。玉川も飯山も目的は同じである。市民による自主的なまちづくりを支援していくのが、分権時代の行政のあり方だと思うのだが。

 市民グループが古民家保存(2001.12.01)

 厚木市飯山の「志村邸」を市民グループで保存しようと運動に乗り出した「建築とまち研究会」は、今年の6月、厚木市に保存活用に関する提案を行なっている▼それは(1)コミュニティ施設としての活用、(2)郷土の歴史体験施設としての活用、(3)建物部材を解体保存して、将来の移築復元を待つという3つの提案だ▼(1)は土地・建物を取得して公民館の分館的機能を担うもので、小中学生の体験学習の場として、年中行事などを通して地域に伝わる伝統文化を体験してもらうものである。(2)は、建物を取得して調査・解体を実施し、別の土地に移築復元を図るもので、コミニュティ施設と同様の活用を図るというやり方だ▼(1)(2)とも、行政が介入して、取得保存するのがベストなやり方だが、厚木市には財政的事情もあって土地・建物を取得して保存する考えはないという。「建築とまち研究会」の提案で優れているのは、単に古民家を保存展示するだけではなく、それを実際に使って活用するという点にある▼この構想を何とか実現に結びつけたいものだが、行政が見向きもしないのであれば、第3者が建物を解体して部材の保存を図るという方法しか残されていない。だがこれには、あまりにもお金がかかる▼会員の南雲さんは「部材を残してさえおけばいつの日かは必ず将来の復元につながる。これを市民グループの手で何とかやりたいので、多くの方にお手伝いをしていただきたい」と支援を呼びかけている▼この民家はもともと市の文化財保存の候補対象リストに載っていたものである。志村邸は市内に残された町家造りの唯一の古民家であるだけに廃棄されてしまったら、2度と手に入らない。部材の保存だけを考えるのなら、400万円でこと足りる。市民グループが自腹で何とか保存をと考えているのだから、行政があっさりと突き放すのはいかがなものかとも思う。南雲さんたちの保存運動は資金的な面でも相当な苦労を伴うが、ぜひ運動が成功することを祈りたい。

 緊急地域雇用創出時特別交付金(2001.11.15) 

 国の本年度の補正予算が国会に提出されたが、雇用対策の目玉として盛り込まれた「緊急地域雇用創出時特別交付金」の使い道に、各自治体が頭を悩ませているという▼交付金は国が自治体に資金を提供し、新規雇用の見込める事業を生み出させる制度で、政府は前回の1.75倍に当たる3千5百億円を計上した。事業の選定には土木・建設事業は対象外とする―など種々の制約がある▼土木工事や建設事業を外すというのは賛成だが、失業雇用者の割合が75%以上、研修事業は認めないとする条件などがあって、実際の利用はなかなか難しい▼各自治体は、補助教員として採用する、障害者雇用増大をはかる、部活指導者として採用する、違反広告物の撤去で新規雇用の創出をはかる、文化財遺跡整理や所蔵文献のデーターベース化事業などに活用するなどさまざな知恵を絞っている▼専門的な技術を伴う分野では未経験者や素人には難しい面もあり雇用のミスマッチも懸念されるという。選定を自治体任せにするのではなく、地域のNPOなども議論の場に加わってもらい、環境や福祉の分野への雇用創出が図れるよう検討すべきと思うがどうだろうか▼まちづくりの中で市民資本やワークシェアリングを理念としてNPOが担っている分野はことのほか多い。自治体はもっとNPOに相談すべきであろう。

 NPOに期待(2001.11.01)

 全国の繁華街で犯罪や非行防止活動に取り組むNPO法人「日本ガーディアン・エンジェルス」の横浜パトロールチームが、このほど大和駅周辺の繁華街を巡回パトロールした▼犯罪や非行のないまちづくりを目指して、地域住民の防犯活動の呼び水になればと実施したもので、今後は大和支部の設立を前提に、活動を続けていくそうだ▼今回は警察と事前に打ち合わせを行った後、制服に身を包んだメンバーが、違法な立看板を撤去したり、盛り場の酔客や10代の若者にも気軽に声をかけ、犯罪防止を呼びかけて歩いた▼同会本部によると、こうした活動を仙台や千葉、東京、広島などでも立ち上げ、それぞれの地域のメンバーが、NPO法人として地域の継続的なボランティア活動に参加しているという▼本部では地域でこうした活動をしようという市民がいれば、活動のためのノウハウを指導して、チーム立ち上げのサポートをしてくれる。横浜チームは今年の4月に発足した▼活動の主体は青年会議所のメンバーであったり、商店主であったり、青少年指導員であったりまちまちだ。大事なことは地域の人たちが自主的に継続的な活動ができる体制を整えることだという。活動は基本的にボランティアだが、運営費はただではない。こうしたNPO法人には、行政も資金的な面でサポートする必要があろう▼まちづくりはNPOやボランティアが担う分野がたくさんある。たとえば犯罪と非行を誘発する不法な捨て看板などはいくら取締や行政指導を行ってもいたちごっこで、いつかはまた元に戻ってしまう。まちを明るくするのは、取締や指導、啓蒙的な活動をいかに継続的、定期的に行うことができるかにかかっている▼行政機関で対応できないのであれば、これを地域のNPOやボランティア団体に任せるのも方法だ。つまり行政ではできないことを補完してもらうのである。もともと行政はやる気がないのだから、そのほうがずっと期待できるし効果的である。地方分権は役所の仕事を少なくしてこうした人たちに税金を配分する仕組みを考えることであろう。

 選挙に行こう勢!(2001.10.15)

 愛川町の町長選挙が10月16日告示される。6期24年間続いた相馬町政に終止符が打たれ、21世紀の新しいまちづくりの指導者を選ぶ大事な選挙である▼町長選には前助役、建設会社元社長、前町議、元大学教員の4氏が立候補を表明している。今回の選挙には、保守の分裂、地元対よそ者、自薦とインターネット公募などこれまでの町長選とは異なった対立の図式が見える▼役人出身者が現職の後継者として町政を世襲することができるか。これにクサビを打ち込んだ保守2人が一矢報いるか。インターネット公募候補が自薦組を抑えるか。また、地元組がよそ者をはねつけるかなど興味はつきない▼作家の石川好さんが98年に「選挙に行こう勢!」という市民運動を起こした。石川さんはこれと合わせて「いい候補見つけ隊!」という被選挙権を行使する呼びかけも行なった。これは「無名の有権者から、政治家への道を志願する人間を発掘する運動である」(石川好著「投票権と選挙に行こう勢!」『政治参加する7つの方法』筑紫哲也編・講談社現代新書)▼あいかわ町民ネットのインターネット公募による候補者選びも、自薦、世襲、しがらみではない、「いい候補見つけ隊!」運動の一つであった。新しい時代の町長選挙のあり方に一石を投じたという意味では、大きく評価されていい▼この一石がどう投票に結びつくのか。「出たい人より出したい人を」という町民ネットの真価が問われるのはこれからだ。石川さんではないが「選挙に行こう勢!」。

 熱狂的等質化現象(2001.10.01)

 圧倒的な世論の支持を得て小泉さんが総理に就任して以来、ずっと気になっていることがある。それはハーディングと呼ばれる日本人の群衆行動である▼評論家の内橋克人さんは、「いまだ個としての自立を十分に果たしているとはいえず、したがって市民社会も未成熟なままの日本では、何か事が起きると、人びとは同じ方向をめざしていっせいに走り出し、自分の信条や情感までも他の人と等質化させることに懸命になる」これを「熱狂的等質化現象」(内橋克人著「小泉構造改革」は私たちをどこへ導くか」『世界』2001・7・第690号)と指摘している▼アメリカで同時多発テロ事件が起きて以来、国際社会は報復戦争一色である。テロを絶対に許さない、犯人を厳しく罰するというのは当然だが、報復戦争となると世界各国がアメリカに追随してまるで等質化現象に陥っているようにも思える▼日本で発生した初めての狂牛病問題はどうか。いまのところ列島全体として大きな混乱は起きていないが、巷では狂牛病問題でもちきりだ。しかも安全な肉に対しても「食べたくない」という風評被害が広がりつつある。これも等質化現象の現れだろう。われわれはこうした等質化現象が、かつて国家や社会の選択を誤らせたという歴史的悔恨を味わってきた▼神奈川新聞が米国のテロに対する報復戦争について、県民100人に世論調査を行なったが、反対が45人で、賛成の41人を上回った(2001.09.28号)。少しホッとした気分だが、考えてみると社会が一色になるのはやはりどこかおかしい気がする。反対意見や少数意見があって健全なのである。内橋さんは何事につけても「複眼的で冷徹な洞察力をもって絶えざるチェックを怠ってはならない」と指摘している。

 集団の狂気(2001.09.15)

 深夜、インターネットの電子メールを確認していたら、友人がアメリカで起きた「同時多発テロ」のニュースをメールで知らせてきた。驚いて、テレビを見ると、まるで映画を見ているような錯覚にとらわれ、いいようのない恐怖心に襲われた▼数年前にもこれと同じような体験をした。それは「阪神・淡路大震災」の惨劇だった。この時もテレビのスイッチをひねると、黒煙をあげて燃えつづける神戸のまちを目の当りにして、ショックを隠しきれなかった▼神戸の時は、大地震によって近代都市が崩壊していく姿に、ただ唖然とするばかりだった。そしてそれをどう説明してよいか分からず、「地球は怒っている」と感覚的に受けとめるしかなかった▼アメリカの同時多発テロ事件は、これに続くショックである。超大国の象徴である超高層ビルに、ハイジャックされた飛行機が激突炎上、やがてビルが影も形もなく崩落していった。まったく悪夢としか言いようのない惨劇だ▼しかも、テロである。これまで私達が知っているテロは、世界の指導者を暗殺するとか、関係する複数の人々をターゲットにしたものであった。一般人を巻き込んだこれほど組織的・大規模なテロは史上初めてだろう。恐らく数千人規模の死者が出るに違いない。これは政治や民族、宗教の対立といったレベルで語られるには度を越している。いったいどう説明したらよいのだろうか▼一般人を殺戮する無差別テロ。これは日本赤軍のコマンド・岡本公三が関与したテルアビブ空港乱射事件が始まりのような気がする。問答無用だ。明らかに人間が「狂っている」としか言いようがない。地下鉄サリン事件の時もそうだった▼「狂気は個人にあっては希有なことである。しかし、集団・党派・民族・時代にあっては通例である」(ニーチェ『善悪の彼岸』新潮文庫)▼見えない悪魔が戦争を仕掛けてきたのである。いや戦争でも宣戦布告はするだろう。宣戦布告がないだけに、陰惨で始末におえないのだ。これまで「戦争」こそ集団や時代の狂気の発露だった▼現代は「個人の狂気の時代」であるだろう。日本が、そして世界中がこの個人の狂気に病んでいる。しかし、アメリカで起きたテロは「集団の狂気」の時代にまたもや時計の針を逆戻りさせてしまった。戦争が始まるのだろうか。これは「通例」などというものではない。集団の狂気、それは武装してマグマのように突然噴出してくる。われわれはこれにも立ち向かわなければならなくなった。

 構造改革(2001.08.01)

 「聖域なき構造改革」小泉流改革はこの一語に集約される。だが、小泉さんは改革の道筋を示しても、改革の中味をはっきりとは示して来なかった。国民がただ漠然と理解しているのは、改革には痛みを伴う、それが2〜3年は続くらしいということだけである▼にもかかわらず参院選で自民党が大勝した。国民は野党薬よりも小泉薬の方が効きそうだ。党内にテイコウセイリョクという癌が巣くっているが、小泉さんは威勢がいいし、はっきりと物を言う。それにカッコいい。自民党や日本を変えてくれそうだという期待感からである▼しかし、小泉流改革の処方箋はまだはっきりと示されたわけではない。どんな薬を使ってどんな手術をするのか、痛みはどの程度なのかという疑問にはまだ明快な回答がない。小泉さんが進める改革は「聖域なき構造改革」である。そうである以上、痛みは個人に必ず跳ね返るから国民にも覚悟が必要だ▼だが、国民は手術の説明を受ける前に、まな板の鯉になってしまった。参院選での自民党の大勝は小泉流改革のインフォームドコンセントに無条件で国民が同意したことである。小泉さんは早急に改革のプログラムを示す責任があろう▼手術の内容、手術の結果その予後はどうなるのか、副作用や合併症、感染症にかかるおそれはないのかなどを分かりやすく説明しなければなるまい。今後小泉さんに求められるのは「改革のアカウンタビリティー」である。

 畳の上で死ぬ(2001.07.15)

 昔から「畳の上で死にたい」というのが、日本人の切なる願望としてあるが、核家族化や医療技術の進歩によって、この「畳の上で死ぬ」というのは幻想になってしまった。日本では末期ガン患者のほとんどが一般病院で死亡している▼ところが、一般病院は死にゆく患者のためにではなく、治癒改善して社会復帰できる患者のために整えられているから、多くの末期ガン患者は、多忙な一般病院の医療システムの中で完全に取り残されてしまっている▼厚木で末期ガン患者の在宅医療を支援する精神科医・玉地任子さんが、『在宅死』(講談社)という本を出版した。病院ではなく、畳の上で逝った25人のがん患者の遺族とともに綴った「魂の記録」だ▼「病院と自宅では空気の色や味に違いがある」。かつて玉地さんがホスピス病棟長をつとめていた病院で、末期がん患者が語った言葉である。病院で死を迎えることに何の疑問も持っていなかった玉地さんにとって、この言葉は心の棘になって残ったという▼その後、玉地さんは厚木市に末期ガン患者を24時間サポートする「ゆめクリニック」開設した。この7年間に、自宅での看取りを手伝った患者は百人を越えるという。玉地さんは言う。「かれらは最後まで自分らしく、わがままに、そして精一杯生きた」▼人はなぜ畳の上で死にたいのか。『在宅死』はこの疑問に、見事に応えている。

 議会改革(2001.07.01)

 厚木市議会が議会改革に乗り出す。代表質問制の導入や一般質問時間の配分制、予算特別委員会設置の可否などについて検討するという。また、議長の任期や、休日・夜間本会議の開催、テレビ中継についても検討するそうだ▼代表質問制の導入は、市が抱えている問題や課題に、各会派がどのような考え方をしているかを知ることができるし、予算特別委員会の設置も予算審議が集中的に行えるという点では大きなメリットがある▼一般質問時間の配分制についてはどうだろうか。厚木市議会の最大の優れた点は、一般質問が誰でも自由に平等にできることである。議会は誰にでも持ち時間50分の一般質問を認めている。従って質問者の数は他市に比べて多い。これをたとえば代表質問制を導入することによって一般質問の日程や時間を削減したり、議席数に応じた時間配分にするのでは、後向きの改革になる▼質問者の数が多いのは、議会は「言論の府」であるということを制度的に保証している結果であり、議員が日々勉強していることの現れでもあろう。毎回一般質問を行うことに、存在感と意義を見いだしている議員もいるのである▼このすぐれた利点は、議会活性化につながるし、理事者との間によりよい緊張関係を生み出している。この利点は変えることはないだろう。休日・夜間本会議の開催やテレビ中継は、もちろん歓迎だ。

 学校の開放(2001.06.15)

 学校という教育現場でおよそ信じられないことが起こった。大阪教育大付属池田小学校で児童8人が死亡、教師2人を含む15人が重軽傷を負った事件である。加害者が学校とは直接縁がなく、しかも精神病で責任能力を問えないかも知れないと聞くと、何ともいえない怒りと悔しさがこみ上げてくる▼この事件によって、学校の地域開放を見合わせるという小中学校が全国で相次いでいる。学校という性格から校門を閉めっぱなしにするには難しい面もあるだろう。川崎市では夏休みまで全小学校で保護者と地域住民による校内パトロールを実施することを決めた▼だが、よく考えてみると、学校の地域開放というのは、門を開放したりフェンスやブロックを取り去ることではない。子どもたちの安全確保のためには、授業中、誰でもが勝手に入ってこれないように門を閉めることも必要だ。開放するのは児童生徒が下校した後にやればいい。つまり学校の開放とは誰でもが自由に校内に入ってこれるようにしたり、授業や子どもたちの生活を開放することではなく、放課後、施設を地域に開放するということで十分なのではないか▼それにしても今回の事件で、大人は普段からもっと声をかけあうことが大切だということを再認識させられた。これまで大人は電車内の暴力を見て見ぬふりしたり、ごみを平気で捨てる人がいても注意せず、誰かがいじめられても自分に危害が及ぶのを恐れ、声もかけずやりすごしてこなかっただろうか▼厚木で行われている「かけこみの家」は、子どもたちの身の危険を地域全体で守ろうという発想だ。この発想をもっと学校現場や地域の日常活動の中に持ち込めないものかと思う。法改正や制度的な対応も大事だが、社会のルールに反した行為をする人にはきちんと注意したり、被害者を保護するという当たり前の社会を大人が勇気を持ってしかも連帯して作りあげていかないと、子どもや社会的弱者を守ることはできない。

 権限委譲と自己責任(2001.06.01)

 来年4月1日を目指して厚木市の特例市への移行準備が始まった。これまでにも国や県からさまざまな権限委譲が行われてきたが、この特例市の移行によって、さらに地方の権限が拡大するのは言うまでもない▼地方分権の徹底は、一方において地方行政の組織の在り方や職員の資質にも大きな変革を迫るものである。権限と財源の委譲は不可避的に人員の増大と権限の強化を生む。だが、仕事の数合わせ的な職員増や中央政府同様の官僚的対応では、大きな地方政府を作るだけだし、官官分権になると批判にさらされよう▼権限委譲は自治体の自己責任も問うてくるだろう。これまでのように、機関委任事務にあぐらをかき、自己責任を追及しないで済むというわけにはいかなくなった。この自己責任は職員の資質と能力が問われる自己責任でもある▼従って権限委譲はこれまで以上に、職員のレベルアップを伴うものでなければならない。厚木市も「権限委譲の意義は許認可事務にかかわる職員の法制執務に対する資質の向上など事務処理のレベルアップにつながる」と位置づけている▼ここ数年、厚木市の職員は県や他の市町村からすこぶる評判が悪い。それは行政手続きやまちづくりの立案能力に欠けるという指摘でもある。特例市の移行によって、厚木市は自らの責任において行政処分と行政支援(住民に対する指導ではなく協力)を行う分権自治をはたして創出することができるだろうか。その前提となるのは、職員の意識改革と研修、さらには徹底した情報公開や監査制度の充実など行政手続きの透明性にあり、市がどれほど市民参加を基本とした組織改革を実施できるかにかかっている▼立教大学の新藤宗幸教授は「地方分権は、決して自治体に<千年王国>を築くことではない。むしろ自治体にとって<大変な時代>の到来であるといってよいだろう」(NHk人間大学『地方分権を考える』日本放送出版協会)と指摘している。

 インターネット選挙(2001.05.15)

 愛川町の市民団体「町民ネット」が、インターネットを通じて、町長選挙の候補者を全国公募する。4月に行われた兵庫県佐用町長選の先例にならったものだが、県下では初めてのケースだ▼興味があるのは、候補者の選定が出来るか否かということよりも、候補者探しのプロセスや選挙戦の過程で思いもかけない出来事がネット上で展開される可能性があるということである▼誰かが勝手連的に「がんばれ愛川町」などというサイトを立ち上げるかもしれないし、小泉総理の真似をして「あいかわメールマガジン」を発行する人がいるかもしれない。ホームページを開設すると、いろいろなメールが舞い込んでくる。励ましもあるし、批判もある。掲示板上でネガティブキャンペーンをはられることだってあるかも知れない▼選挙戦が始まると、中傷ビラや怪文書が飛び交ったりするので、これを逆手にとって「怪文書図書館」みたいなサイトを立ち上げたり、「掲示板」を使って仮想投票をやるものが現れるかも知れない。歓迎されるものもあるし歓迎されざるものもあるが、いずれにしてもインターネットボランティアが出没することは避けられない▼長野県知事選でインターネットボランティアを体験した高橋茂さんは、こうしたデジタルボランティアのことを「サイバー軍団」と呼んでいた(高橋茂「インターネットと勝手連―長野県知事選の舞台裏」『政治参加する7つの方法』筑紫哲也編・講談社現代新書)。IT時代の選挙では「サイバー軍団」が大活躍するだろう。愛川町長選でもこの軍団を味方につけた方が勝つかも知れない。

 一言居士・直情径行(2001.05.01)

 新総理に選ばれた小泉さんには2度会ったことがある。昭和47年、衆院選に神奈川2区から立候補して落選、再起に備えていた小泉さんと、川崎市のある会合の席上でお会いした。名刺を交換をしたが、その時の印象は色白でひ弱、神経質そうな感じがした▼その後、衆院に当選して十年後だったと思うが、用事があって議員会館に小泉代議士を訪ねた。その時、小泉さんは自民党の大蔵部会長をつとめていた。10年前と比べて一際大きく見えた小泉さんは、財政通の切れ者という印象がした▼小泉さんはその後、大蔵政務次官、大蔵委員長、厚生大臣、郵政大臣を歴任した。その後、今日まで直接お会いすることはなかったが、小泉さんに一番感銘を受けたのは、会って直接話をしたことよりも、94年に出版した『郵政省解体論』(光文社)を読んでからだった▼小泉さんは解体論で「民間でできることは役所がやる必要はない」「郵政省の改革なしに行政改革はありえない」と主張、96年にも『官僚王国解体論』(光文社)を著して、ますます気を吐いていた。そして行財政改革について「もはや小手先では駄目だ」「総理大臣の選挙権、東京一極集中の既得権、官僚の既得権をぶち壊さない限り、日本の未来はない」という大胆な発言を繰り返していた▼その主張は今日まで一環して変わっていない。小泉さんの発言は分かりやすく歯切れがよい。総理になってもこの「一言居士」「直情径行」を貫いて欲しい。

 相模人国記(2001.04.15)

 郷土史家の飯田孝さんが『相模人国記』(市民かわら版社)を出版した。厚木愛甲にかかわりのある100人の人々の生き方を、豊富な資料にもとづいて描き出したもので、相模に生まれ、生き、そして相模にかかわった人々の壮大なロマンを感じる▼古い話だが、13世紀のなかば頃に『人国記』という本が著された。諸国を行脚した最明寺入道時頼(北条時頼)の著作と言われているが、正確には著者および書かれた年代は共に不明である。その中に相模人気質についての記述がある。「相模国は風俗豆州(伊豆)に似るといえども、人の気転変し安き所なり。栄ゆる人には縁を以て親しみ、今日まで馴れし人にも、時を得ずして蟄居すると見るときんば遠ざかり、科(とが)なき人にも科を付けて謗(そし)りをなし、非有る人にも、時めく人をば馳走してこれを褒美し、常に栄花を好み、好味を求めて酒色を弄ぶ風儀、10人に8、9人かくの如くなり」(大塚博夫著『お国風と村気質』市民かわら版社)▼何ともひどい悪口ばかりだが、これより後の江戸時代中期に関祖衡という人もこの『人国記』に解説と国々の地図を書き加えて『新人国記』という本を著し、相模の気候風土から『人国記』に載る相模人気質についてはよく符号していると述べている。2つの著作が同様な評価を下しているのを見ると、まさに当たらずとも遠からずのような気さえしてくるが、愛川町の郷土史家大塚博夫さんも、「世間に知られている国や村の人々の気質の評判は、悪口ばかりで褒め言葉はあまりない。それが案外に当を得ていて悪気のない軽口として人々の話の種になっている」と述べている。▼ところで、飯田さんの『相模人国記』にはこうした相模の国にあって、ふるさとを創り、日本の国を動かし、海外に思いを馳せた人ばかりが登場してくる。先の『人国記』から判断すると、相模の国にそんな土壌があったのかと驚くが、彼らを動かしたエネルギーはいったい何であったのだろうか。これらの人たちに共通しているのは、紛れもない「大志」であり「脱相模」であった。彼らはふるさとに固執せず、埋没せず、そしてふるさとを出て行くことで、結果として歴史に名を残す道を歩んだ▼相模の国は昔から「種をまけば寝ていても実がなるところ」といわれている。それは土地が肥沃で気候風土が良く、生活しやすい場所であることを示している。陸路や水路を通じて多くの人と物資の流入があったにもかかわらず、独自文化を育てず、しかも自ら進んで外へ出て行く人は少なかった。この構図は現代も基本的に変わってはいない▼まさに「井の中の蛙大海を知らず」である。『人国記』に書かれてある相模人気質は、そうした閉塞性や内向性から生まれ育ったものだろう。でもいつの時代でもどこでも変化を求め、外洋に向かって漕ぎ出す人々はいる。飯田さんの『相模人国記』はまさに大海を泳いだ人たちの足跡である。shuppan4

 県立厚木病院・厚木市へ移譲(2001.4.1)

 県立厚木病院の厚木市への移譲が決まった。3月27日、岡崎知事と山口市長が移譲に関しての基本合意確認書に調印した▼市は平成15年度当初を目処に移譲を受けるが、不採算部門である救急医療や周産期救急医療、感染症・エイズ医療などを維持するのが条件だ。土地建物、医療設備などは県が無償譲渡することで話が決まった▼だが、医師や看護婦など県職員の処遇をどうするか、毎年18億円前後の赤字を出している病院経営をどうしていくか、直営か委託かなどの運営形態についても重要な検討課題として残されている▼市は現在の診療科目はそのまま維持していくというが、民間病院の機能が充実してきている今日、総合病院にこだわるのか、専門医療や政策医療に特化していくのがいいのかは議論の別れるところだろう▼また、市民の成人病検診などを一手に行うという検診業務に専念するとか、患者の自宅と病院を通信回線で結び在宅診療ができるシステムを開発するとか、専門性を生かして大学病院や他の公立病院と医療連合を図っていくとか、研究する課題はいくらでもある▼長野県伊那市の中央病院は癌、駒ヶ根市の伊南総合病院は脳外科、飯田市の市民病院は心臓病が専門で、高度な医療施設を置いて中央自動車を使って互いに機能の分担を図っているという▼いずれにしても何か知恵を出し合わないと、厚木市立病院はこれまでの県立病院と同じになる。

 農業と国土の修復作業(2001.3.15)

 神奈川県が県下の主要農畜産物生産の努力目標を策定した。米や麦、大豆、野菜、肉牛、豚、鶏卵など13品目ごとに生産量の達成目標を掲げ、2010年度までの実現をめざす▼そして増産のため、遊休地や耕作放棄地の活用、良質な早生品種などを導入していく考えだ。だが、一方では都市化による農地面積の減少や担い手不足、生産者の高齢化が進むなど難しい局面もある▼県ではこの目標を達成するために、仮称地域農業支援センターを設置するという。研修農場や大規模市民農園などにセンターを併設させ、農業体験とともに担い手を確保する支援事業を行い、農業に関心のある方を巻き込んで活性化を図っていく▼農業生産性の向上と良質な生産物の確保は、食料自給率を上げるばかりでなく、自然環境の保全や輸入農産物に依存しない食の安全性、地産地消など地域経済の発展と新たな雇用を生み出す。国や県はこうした事業により大胆に予算を投入すべきであろう▼戦後、日本は列島の総合開発により、農林業を衰退させ、都市と農村の格差を生み出した。その結果、農産物の自給率を著しく低下させたことは周知の事実である。21世紀は、国土を元あった自然にいかに近づけるか、これと連動する農林業をいかに回復させるかという「修復作業」が、国や自治体の重要な施策とならなければならない▼税金をダムや道路、箱物に使うのではなく、農林業の育成や自然環境の回復に投入し、「新たな有効需要」を作り出すことが求められているのである。自然回復型・国土修復型ニューディール政策だ。

 議員報酬の引き上げ(2001.3.1)

 厚木市議会で議員の費用弁償を廃止する条例改正案が取り下げになった。今後、協議会を設置して本会議のテレビ放映や夜間議会についても検討、全会一致で再提案するという▼この問題に関連して議員の報酬問題が議論の対象となりそうだ。厚木市会の議員報酬は6年間据え置かれたままで、現在、月額452,000円、年額約790万円だ。県内の同規模自治体に比べても最低のランクである▼過日の日刊新聞にも「片手間ではできない。あと10万円あれば妻を働かせなくてもやっていける」「市の係長よりも低い」「こんな報酬では若手で政治をめざす人がいなくなる」など現職議員の談話が出ていた▼平成10年厚木市議会に、Sさんが議員の定数と給与をそれぞれ2分の1にする陳情を出したことがある。Sさんは平成9年の議員の勤務状況を調査して、年間実働日数41日・労働時間は206時間だったと指摘、この実態に議員が受け取る平均給与837万円に納得する市民がいるでしょうかと疑問を投げかけた▼市内の会社社長も「議員は年間75日。関取は90日しか働かない。関取は成果給だから良いが、議員はみな日給10万円だ。係長は300日以上働くので比較すること自体無意味。昨今のデフレ経済から判断すると、議員報酬を引き上げる理由は何もない」と話していた▼この両者の指摘は極端だろうか。報酬論議は中味も検討しないと意味がない。

 原潜のVIPクルーズ(2001.2.15)

 ハワイ・オアフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」に衝突、沈没させた米原子力潜水艦グリーンビルに、15人の民間人が乗っていた▼米太平洋艦隊のファーゴ司令官は会見で「われわれにとって日常業務。ビジネス界や地域、学界のリーダーに活動を説明している」と述べていた▼軍事評論家の藤木平八郎さんは「急浮上訓練は民間人へのサービスだったのではないか」(朝日新聞)と指摘している▼筆者は97年10月5日、横須賀基地の米海軍第7潜水艦部隊(司令官/アルバート・H・コネツニー少将)の招待を受け、VIPクルーズの一員として原子力潜水艦ブレマートンに体験乗船したことがある▼今回の事故で米軍関係者は、「(民間人を乗せても)コンピュータルームなどへ案内するだけ」と説明していたが、筆者がブレマートンに乗船した体験とはかなりのへだたりある▼私たちVIPクルーズはソナー室とコンピュータ室、巡航ミサイル・トマホークとその発射装置、潜望鏡室、コックピットなどハイテク技術を駆使した原潜内をガイド付きでつぶさに見学できたし、原子炉以外はカメラもすべてOKだった▼原潜の急速潜航、急浮上などを体験したのはもちろんのこと、潜望鏡の操作、エアープッシャーによる巡航ミサイルトマホークの模擬発射、コックピットの操縦までさせてくれたのである。従って「コンピュータ室へ案内するだけ」という米軍側の説明はまるで信じがたい▼当時は日米ガイドラインの見直しで、ブレマートンのVIPクルーズは、日本の識者(政治家・自衛隊関係者)へのPRの一環だった▼推測だがグリーンビルもブレマートンと同じことをしていると思う。

 アメリカによる平成の占領政策(2001.2.1)

 1月27日、市内のホテルでテンダー会議が主催するニューヨーク市立大学大学院の霍見芳浩教授の講演を聞いた▼霍見教授は米国人好みのジョークが得意だが、日本病のガンの摘出手術として、「有料で米国に3か月間日本を占領してもらう」と大胆な提案をしている。そして、消えかかっている日本の政治、経済、社会の民主化の火をかきたてるために、次の三つを断行させたいと説く▼1つは老害を取り除くために各界で公職追放を実施する。民間企業では60歳と取締役、中央地方官庁では55歳と局長以上、衆参両議院では60歳が追放の最低線▼2つ目は官主主義退治のために、大蔵省解体、通産省、文部省、自治省と建設省の廃止も含めて中央省庁の統廃合▼そして3つ目は現存の諸々の政府規制で企業と消費者を金縛りにしているものは、まず自然環境保護、製品安全、勤労者の搾取禁止のものを除いて全廃し、新しい規制にはすべて「3年で自然消滅」とサンセット・ルールをつける(霍見芳浩『日本の再興―生き残りのためのヒント』講談社文庫)▼敗戦直後、米軍占領下で実施された日本の民主化のためにとられた大改革と同じ手法である。霍見教授は「日本」の代わりに、例えば神奈川県や厚木市、勤務先、通学先、家庭の3大改革は何かと置き換えて考えても良いとしている▼明治維新、敗戦と続く近代日本の改革は外圧にたよるしかなかった。占領は冗談としても3つの改革を断行するには、国民の造反精神と行動にたよるしかない。霍見教授も「日本を変えるのは衆賢による一票一揆しかない」と指摘していた。

 成人式のルーツ(2001.1.15)

 市長に向かってクラッカーをならしたり、知事が注意すると逆に出て行けとやじったり、会場にアルコールを持ち込むなど、21世紀最初の成人式は一部の若者たちによってさんざんな結果に終わったところがある▼昨今の成人式会場は、どこでも騒がしく祝辞をまともに聞いている人がいない。友達とぺちゃくちゃ話したり、携帯電話をかけたり、会場を歩き回ったり、まるで同窓会をそのまま会場に持ち込んだような光景だ。最近はこれにヤジが加わったり、ステージに駆け上がって騒ぎ出すなど傍若無人な振る舞いが目立つ▼増田高松市長が威力業務妨害で騒いだ若者を告訴したのは当然だし、橋本高知県知事が「出て行け」と怒鳴るのもうなずける。彼らの人格を思いやるにも限度があるのである。社会にはルールがあり、それ以前に常識がある。ルールを守れない人間が正当化されるほど世の中甘くはない▼成人式のルーツは埼玉県蕨市で昭和21年11月22日に行われた青年祭がその第一号だ。敗戦国日本の次代を担うのは「われわれ若者である」と、22歳を迎えた若者たちが自主的に行ったという。当時はモンペ姿、行事も復員相談やバザーが主で、サイズの合わない靴の交換が盛んに行われたという▼半世紀過ぎると成人式の中身も若者たちもこうも変わるものか。成人式廃止論が出る中、蕨市の先人たちの気概に思いを馳せてもらいたいものだ。

 地方分権と5人の馬鹿(2001.1.1)

 21世紀は分権と自治の時代である。それは国や社会、地域、生活のあり方をつくり変える大事業でもある▼分権と自治を保障するものはいうまでもなく「市民参加」であろう。市民参加の手法は大きくいって、@関心 A知識 B意見提出C意見交換D審議E討議F市民立案G市民運営H市民実行の9段階に分けられる。Dまでは「市民参加」といってもよいが、E以降になると「市民参画」、F以上は「市民主体」になる(田村明『現代都市読本』東洋経済新報社)。つまり分権と自治が進めば進むほど限りなくHに近い手法が保障されていなければならないのである▼だが、分権の思想のない分権、自治の精神のない自治がなしくずし的に進む可能性もある。それは旧来の手法を踏襲する危険性でもあろう。よくまちづくりには「5人の馬鹿がいる」と言われる。馬鹿とは自分の損得だけで動かない人のことをいう▼現在はあまりにも自己中心的で自分が得になることにしか動かない「お利口さん」が多い。そういう人から見ると、損得を度外視して動く人は一見「馬鹿」に見える。だが、まちづくりの実践で得るものは、小さな利己的行動よりも、もっと大きい本当の利口かもしれない▼この5人の馬鹿とは、@発想力のある知恵者 Aすぐに同調して乗りやすい人B別な角度から批判する目を持つ人 C働くことを嫌わない人D雰囲気を楽しくさせる人である。市民すべてがこの馬鹿になるとそのまちの分権と自治は大きく前進する。本年はこうした人たちが主役になる年でありたい。