風見鶏

1986(昭和61年).1.1〜1986.12.15

 夢のない総合計画(86・1・1)

 厚木市の総合計画後期基本計画がスタートする。総合計画を読んでいて、いつも思うのは、市民に夢や希望を持たせる記述に乏しいという点である▼いわゆる都市問題というのは、交通や住宅、ゴミ処理、下水といった市民の日常生活にかかわることがらを、行政上どう処理していくかを計画化していくことなのだが、一般的に都市が人間に対して持つ意味の次元には、ほとんで言及していない▼都市のメンタルマップというものがある。人々がどんな空間に住んでいるかを示すもので、これは社会階層、文化的伝統、心理的障害などによって異なってくるが、これを集約化したものが、都市の形態やイメージを形成するといってもさしつかえない。総合計画に欠落している点は、都市のイメージを形づくる「精神のエコロジー」からのアプローチである▼5年後のメンタルマップはどうであろうか。計画通りに進むと、五年後の厚木市は人口20万人。都市の再開発が進んで教育文化施設が建ち、交通問題もある程度緩和された神奈川の中核都市に成長している、とこうなるわけだが、全体としての都市のイメージや顔は極めて曖昧だ▼本紙の新春対談で足立原市長は市民による「まちづくりコンペ」を提案した。都市のイメージや意味を包含した内実のある作品を期待したい。

 成人のルール(86・1 ・15)

 民法第3条によると、「満20年を以て成年トス」とある。20歳の世の中のルールは何であろうか。まず財産の処分や営業行為が法律上自由にできる。結婚するのにも法律上父母の同意を必要としない。このほか満20歳になると、いろいろな資格や免許がとれる。医師、薬剤師、建築士、公認会計士、船員など。中には質屋の営業なんてものもある▼そして未成年者飲酒禁止法、ならびに喫煙禁止法の解除だ。馬券や車券も合法的に買えるし、優生手術を受ける資格もできる▼公職選挙法第9条1の条文には、「日本国民で年齢満20年以上の者は、衆議院議員及び参議院議員の選挙権を有する」とある。つまりあらゆる意味で1人前の大人としての扱いを受けるのである▼しかし、存外いい気になってばかりはいられない。悪事を働いた場合は、新聞に名前が出るし顔写真も載る。刑務所も少年院とはわけが違う大人の刑務所だ。また、衆院や地方選挙の被選挙権については、25歳以上だし、参院、知事は30歳以上にならないと被選挙権はない。自由でありかつ責任の重さも感じるだろう▼今年、新たに大人の仲間入りをする新成人は、昭和40年と41年生まれ。ポスト戦後の申し子だ。満20歳の世の中のルールをどう噛みしめているだろうか。今日15日は「成人の日」。

 行政の原価意識(86・2・1)

 このほど日本都市センターが行なった調査によると、ゴミ収集はトン当たり行政直営は1万4,528円、これに対して民間委託は4,513円で、民間は直営の約3分の1のコスト出来るという驚くべき数字が出ている▼行政の方がなぜコスト高になるかというと、人が多い、給与が高い、年齢構成が高いなどの要因があるからだと指摘している。民間業者に聞いてみると、確かに3分の1位の経費でできると答えている▼埼玉県の草加市で1人当たりの処理費を調べたところ、民間と直営では3t対1.3tの隔たりがあった。働く時間も直営は9時半から午後2時ごろまで 、民間は6時から5時までだ。また収集車に乗る作業員は、直営では3人なのに、民間では1人という結果も出ている▼こうなると、役所仕事はすべて非能率でコスト高ということになるようだが、市場に任せたり、民間でやると不公正や不平等になる部分を、行政が受け持つことによって、公正さや公平さを維持することが出来るという側面もあるため、いちがいには言えないにしても、一般的にお役所仕事は非能率で非効率であることは疑いがない▼民間がなぜ低コストでしかも能率がいいかというと、原価意識が徹底しているからである。最近、行政の投資効果ということばが聞かれるようになった。予算を使うのは結構だが、公共の福祉やサービスにどれだけの効果があったかということをもっと認識する必要があるというのである。民間でいえば利益が出たか出ないかということにある▼原価意識と投資効果のチェックは、無駄使いを防止する意味からも、より徹底されねばならない。それにしても同じことをやるのに民間の3倍のコストがかかるという点はまったく信じられない。

 

 教師の不用意な発言(86・2・15)

 教師の不用意な発言がきっかけとなっていじめられ、3年間にわたって精神的な屈辱を味わった。大学時代の友人と話をしていたら、こんな体験を話してくれた▼いまから26年前の小学校4年生のときだという。担任の先生が社会の授業で、歴史上の人物のニックネーム(あだ名)を紹介して、クラスの中にいた同じ姓の友人を指差した▼教師は半分冗談のつもりだったのだろうが、その時から友人はクラスの仲間や教師からニックネームで呼ばれる羽目になってしまった▼ニックネームが低能でうすのろの代名詞のように使われていたからたまらない。以後、あだ名は友人をからかったりいじめたりする絶好の道具として利用されたという。卒業するまでの3年間、同じ担任のもとだったというから不幸というほかはないのだが、教師の不用意な発言が友人の心に大きな傷痕を残したことは想像に難くない▼お葬式ゲームでいじめられ自殺した児童が、寄せ書きの色紙の中に担任の名前をみつけたとき、果たしてどんな気持ちを持っただろうか▼友人は精神的屈辱から逃れるため、良い成績をとってクラスの中で優位に立ったという。その友人が13年後に教師になった。いま、友人はいじめという問題に直面して、いじめられる側の気持ちと、それに打ち勝つ精神を持たせるために、自分の体験を聞かせている。

 公民館の自主管理(86・3・15)

 公民館は地域のコミュニティーの活動の拠点として重要な位置を占めている。厚木市でも中学校区を単位として12館が設置されているが、最近、この公民館施設を住民の自主管理に切り換える自治体が出てきた。建設は市で行い。運営を住民に委ねるという方法だ▼これは住民に「公民館は自分たちのものだ」という意識を持たせ、参加意識を高めさせることからも大切だが、一方で行政をなるべく身軽にし、コストを下げて、それによって限られた市民の税金をもっと有効に活用しようというもので、十分検討に値する▼現在、厚木市の公民館は職員2名と補助員1名、ほかに管理人1名が居住するという直営方式の運営だ。これを住民の自主管理にすると、1Fの年間経費は、直営に比べて2分の1から3分の1という低コストになる▼また、地域には優れた指導者や研究者が大勢いるから、自主的な社会教育のプログラムが組める。今年度に建設が予定されている上荻野公民館を、テスト的に住民による自主管理に切り換えてみてはどうだろう▼自主管理方式は高齢化において企業の第1線から引退した実年の世代や家庭の主婦、また週休2日制による勤労者の地域社会に対する参加意欲をいっそう高めることにつながるのである。

 留守番電話(86・4・1)

 留守番電話やテレホンサービスというのは誠にに便利なものだが、実は使い方によっては相手に対して非常に不愉快な思いを与えることがある。先日の雪害による東京電力の対応のまずさはその典型であろう▼雪のため送電線の鉄塔が倒壊して一部地域では停電が3日3晩も続いた厚木市内では、復旧に対する問い合わせが東電に殺到した。東側では被害住民の対応に録音テープで応えるという方法をとったため、状況を把握できない市民のイライラを増幅させる結果となってしまった▼というのは、テープの内容が復旧の目処や被害の状況を説明したものではなく、いつかけても同じ答えが返ってくるという住民にとって極めて不親切なものであったからだ▼情報不足に悩む市民の怒りが市役所に殺到したため、市でも東電に対して情報が伝わるような措置を講じるよう申し入れを行なったほどである▼今回の東電の対応のまずさは、住民の一番知りたい情報に応えるという配慮に欠けていたことである。テープの内容にそうした情報が録音されていたのであれば、住民の対応も変わっていたであろう▼録音テープは同じメッセージを吹き込んだだけの一方通行の伝達手段である。確かに問い合わせや苦情処理には便利に違いない。しかし、それは時と場合による。災害時にこうしたやり方をされては住民はたまらない。

 滅私奉公(86・4・15)

 「加害行為の公共性が高ければ、それに応じて受忍限度は高くなる」。厚木基地騒音公害訴訟で、東京高裁が下した判決である▼わかりやすくいうと、厚木基地の騒音公害は、日本の防衛という高度に政治的、公共的な問題なので、国民はうるさいとか賠償をよこせとか文句を言わずに、我慢しろというわけである▼この判決を聞いて、戦前、逗子の池子で自分の土地を「お国のために協力せよ」と強制的に接収させられた人のことを思い出した。土地は池子弾薬庫の一部として使われたのである。高裁の判決はこうした「滅私奉公」の論理を被害者である国民に強制的に押しつけるかたちになりかねない▼今回の高裁の判決を池子の米軍住宅建設問題にスライドさせるとどうなるであろうか。「日米安保条約は国の防衛政策上不可欠で、高度に政治的で公共的な問題である。従って米軍家族への池子の住宅提供は当然の帰結で、住民は緑の保存だといわずに建設に協力せよ」という論法になる▼今回の司法の判断は、公共性による被害から住民を救済するための道を閉ざした最悪の例として後世に残るだろう。やみくもに公共性が優先されると、個人の基本的な生活権や人権が犯されはしないだろうか▼「公共性」ということばは決して美名ではないし、「お国のために我慢せよ」ということばは、戦前の「滅私奉公」を押しつけるようでまったく説得力がない。

 大人が子どもに誇れるもの(86・5・15)

 いまの子どもたちは「自己を見失っている」という。5月9日厚木市文化会館で開かれた「児童の福祉を考えるつどい」で、演台に立った長野県篠ノ井旭高校の若林繁太名誉校長も、「豊かな社会の中で子どもたちは生きる目標を見失っている」と話していた▼福島県下のある県立高校の教頭である原洋氏は、いまの平均的な子ども像を「無表情で感情を外に出さない。よく自己弁護をする。自分本位でまったく他人への思いやりがない。自分で自分の意志決定が出来ない。投げやりで耐性に乏しい。生活実感に乏しく観念的である」と指摘している▼確かに現代は「自分は何ものであるか」という意識が最もとらえにくい時代である。マルクスのいう「自己疎外」、エリクソンのいう「同一性拡散」の時代であろう。その意味では自己を失っているのは、子どもだけの問題ではなく、われわれ大人の問題でもある。若林先生は大人が子どもに誇れるのは「忍耐だけである」と話していた▼時代の変化が子どものパーソナリティーの発達にさまざまな障害をもたらしたばかりでなく、大人に対してもアイデンティティーの欠如を招いたのである。「自分は何ものであるか」という答えを、大人がきちんと示しえないかぎり、今の子どもたちの危機は救えないような気がする。

 収賄と行政指導(86・6・15)

 年間200件。厚木市の開発指導に関する許認可事務の件数である。もちろんすべての申請が許可されるわけではない▼市では開発指導にもとづいて行政指導を行なっているから、中にはハネられるものものある。しかし、ほとんどの申請に関しては事前審査が行なわれており、この段階で要綱の基準に合ってないものは、修正されるから、本番ではなく何なくクリアされるのが実態だ▼今回起きた柳川幸男企画調整部長の収賄事件は、この事前審査の段階に問題があったとする見方が強い。市側には落度がなかったとする見方があるが、現場を見てみるとはっきりしない点がある。研究所用地の南側に位置する市道は昔も今も変わっていない。しかも境界をコンクリートの塀でガッチリと固めてある▼この塀はカメラメーカーに売却される以前からついていた。工事が始まった今もその塀は昔と同じ状態である。開発の段階で道路を拡幅しなければならないとしたなら、当然、セットバックしなければならないわけだが、基準以下で便宜を図ったというのが今回の収賄容疑である▼真相はまだ明らかにされていないが、いずれにしろゴルフバッグを何かの見返りとして受け取ったことは事実である。これは明らかに公務員の倫理に欠ける行為である。

 中曾根内閣の手法(86・7・1)

 「戦後政治の総決算」を掲げて登場した中曾根首相の政治手法は、これまでの自民党内閣と比べて質的に大きな違いがある▼吉田内閣、岸内閣はどとらかといえば政治重点主義の政権だった。60年の日米安保条約改定で、国論を2分する状況を形づくったことは周知の事実である。ところが、岸退陣の後を受けた池田内閣は、経済重点主義に路線を転換した。脱イデオロギーの政治手法である。その結果、日本は高度成長を通じて経済大国の道を歩んだ。外交、軍事的には安保条約を軸に「全方位外交」を推進、国際的バランスを保った。こうした政治手法は鈴木内閣まで続いたのである▼しかし、中曾根首相はそれまでの利益配分型の政治からイデオロギー政治の復活へと動いた。その中には軍備拡張と戦前への回帰が見え隠れする。首相は国鉄や教育改革を強力に推進、仕事師内閣のポーズを見せた。だが、その結果もたらしたものは円高不況であり、防衛費の1%枠撤廃であり、福祉の後退である▼いまや僅かな減税では個人消費の拡大はとうてい期待できそうにもない。しかも、赤字国債発行ゼロの目標は84年度から90年度に先送りされた。首相がこんな状態で衆参同日選挙の大勝をあてこむのは、虫がよすぎるとしかいいようがない。

 平和へのつどい(86・8・1)

 わたしのお父さんやお母さんは戦争を知らないのでおしえてあげようと思います―母と子の原爆展(厚木)に、10歳の女の子からこんな感想文が寄せられた▼戦争体験が次第に風化していくなかで、今年も41年目の暑い夏がやってくる。ソ連のチェルノブイリ原発事故以来、核の脅威が世界中で高まりつつあるというのに、日本の平和運動が盛り上がらないのはどうしたわけだろう。原水爆禁止統一世界大会も、今年はとうとう分裂行動になってしまった▼といって、運動に希望がないわけではない。ここ数年、非核宣言を行なう自治体が増えてきたことは平和運動の大きな成果であろう。神奈川県では昭和59年の県宣言以来、62%に当たる23市町が非核宣言を行なった。ニュージランドでは非核自治体が百以上で、全人口の65%を数えるという。現在、同国では国ぐるみ非核地帯にしようという非核ニュージランド法案の審議が進められている▼厚木の市民団体が主催する「母と子の原爆展」が、草の根の平和運動として除々に広がりを見せつつある。平和運動には腰の重い厚木市も、8月に「厚木国際平和のつどい」を開くという。「国際平和年」である。今年こそ市民と行政が一体となった「厚木市非核平和都市宣言」の実現を望みたい。

 こっくりさん(86・8・15)

 「議長車というのは黒塗りはやめた方がいいね。あれはどうもいやだ」。厚木市会の山中良茂議長は公用車での通勤送迎を辞退したという。家が役所から近いというせいもあるらしいが、本音はあの黒塗りがいやなのだそうだ▼過去にも公用車での通勤送迎を辞退した議長がいるが、聞いてみると、「黒塗りの車にはお上や偉い人が乗る、というイメージがあって、あんな車で迎えに来られたら、世間体が気になって仕方がない」のだという。山中議長は議長車についている電話についても、「特に必要がない」ので使わないそうだ▼話は変わるが、議長になると面白い体験をするそうで、井上前議長は本会議の最中に電気が何回となく点いたり消えたりして、そのたびに「暫時休憩します」「再開します」を繰り返し、最後は東京電力に籍のある斉藤敏夫議員に「大丈夫か」といって苦笑したという▼本会議の最中にコックリさんが出てくる。これを止めさせるのも議長の役目だ。井上前議長は発言者をさすべきところをわざと間違えてコックリさんの名前をさし、平然としていたという▼山中議長は「わたしは声が大きいので大きな声を出しますよ」という。地声より大きな声が出たとしたなら、これは山中議長のコックリさん対策だと思ってよい。

 元気が出る政治(86・9・1)

 「元気」という言葉が流行っている。テレビや雑誌はもちろんのこと、政治家の間でさえ、この「元気」ということばがもてはやされているのだ▼「元気」ということばを広辞苑で引くと、「天地に広がり、万物生成の根本となる精気」とある。健康で気力十分、威勢がいいことに越したことはない▼先の衆議院選挙では、神奈川3区から立候補した甘利明氏が「元気が出る政治」を訴えて、見事当選した。朝日ジャーナルでは筑紫哲也の編集長対談「元気印の女たち」が注目を集めているし、最近発行された東洋経済の経済白書特集号では、「元気の出る経済白書の見方」という欄まであって驚かされた▼円高不況で経済が低迷している今日、「積極財政」や「拡大経済」などのことばが頻発され、元気の出る経済が求められている。いま政治の世界で元気があるのは、自民党だけだろう。社会党は慢性の病気で足腰にガタがきている。民社党もしかりで、新自由クラブにいたっては一挙に消滅してしまった。とても元気を出すどころではない▼1980年代の後半は、野党が自己解体する時代といえるかも知れない。連合の時代から自己解体の時代である。元気のない政治は次第にジリ貧になっていく。いま、日本列島総元気論だ。だが、カラ元気もあるから惑わされないようにしたい。

 
 まちづくりコンペ(86・10・1)

 本紙の「新春対談」で足立原市長が「まちづくりコンペ」を提言したが、このほど、厚木市が市民の知恵やアイディアをまちづくりに生かす「あつぎ・アーバン・デザイン・コンペテッション」を実施するという▼21世紀に向けた厚木の都市像を、広く市民から募集するというもので、懸賞金総額は1,700万円とジャンボ級。全国的にもめずらしい試みだ▼むかし「治山・治水は王様の仕事」だった。すなわち、領民は受ける側、王様は施す側というもので、こうした思想は、領民を市民、王様を行政に置き換えて、いまだに根強く残っている。だが、西洋には「神は農村をつくり、人は都市をつくった」という諺もある▼都市の主人公が市民であるという自覚はいまや自明の理であり、現在では、市民参加なくして、まちづくりは一歩も進まない。市民のまちづくりへの意向をどのように把握するかは、多くの自治体で経験済みである▼その手法はは市民意識調査や各種審議会、市長への手紙、自治会長との対話、総合計画素案の公表や提言、モニター方式など多種多様である。最近では単発的ではなく、市民会議や市政懇談会などのようにシステムとして、キメ細かく市民の意向を把握しようという自治体も増えてきている▼厚木市の「まちづくりコンペ」は、この市民参加を政策形成という段階にまで一歩進めたものとして注目に値する。問題はその結果をどう生かすかであろう。コンペは単なるコンクールではない。市民の英知をどう具現化するのかは、市の姿勢にかかってくる。

 アイヌ語の地名(86・10・15)

 中曾根首相が国会で「差別を受けている少数民族が日本にはいない」と発言して、北海道のウタリ協会から「事実認識に欠ける」と反発を招いたが、こちらは同じ知識水準問題でも、学術的なアイヌ語の地名研究だ▼厚木市酒井に住むタクシー運転手山下重吉さんが、このほど「厚木市に残るアイヌ語地名」と題して、独自の研究成果をまとめた。山下さんによると、神奈川の太古は「エミシ(明治以前のアイヌの呼び名)の地で、アイヌの住んでいた相武の地が本家で、北海道のアイヌは分家になるそうだ▼厚木の地名だが、「厚木は諸川の合流したところにあって、アイヌ語でいうATU(吐き出す)KI(場所)=吐き出す場所が、その起源である」という▼教育委員会が刊行した『厚木の地名考』によると、厚木の名が初めて文献に登場したのは、建武5年(1338)禅僧の夢窓疎石が、南北朝時代の重臣・高師直にあてた書状の中に「相州厚木郷」の名が記されている▼地名の起源については、木材の集散地としてのアツメギが変化したもの、アイヌ語のヤオロケシ(寄木)に由来するものなど諸説あるが、いずれも定説にはなっていない。アイヌ語ではアツイゲンからアツイケになり、アツキになったという説もある▼山下さんの研究が、新説かどうかは分からないが、ユニークであることだけは確かだ。ちなみに相模川は「鮭の登る川」の意味だという。

 マイナス点(86・11・1)

 10月9日、足立原市長を励ます市民のつどいが、竣工したばかりの市内のホテルで開かれ、1800人の支持者で賑わった。同市長はまだ正式な出馬表明は行なっていないが、3期目の出馬はいわば予定のコース。今回は自・社・公・民、社民連の5党相乗りにより、前回に続いて無投票となる可能性が強い▼無投票の背景には、 1.無益な選挙、政争を避けたい 2.金がかかりすぎる 3.対立候補になる人材がいない 4.行政実績が評価できる 5.特定の政党に偏っていない。さらには 6.住民側の政治の無関心さ、 7.民主主義の未成熟―などもあげられる▼2月の市長選挙が無投票になると判断するのは早計だが、仮にそうなるとしたなら、人材不足を一番に指摘できるだろう。しかも足立原翼賛体制の中ではとうてい新人に勝ち目はないという判断が、いっそう対立候補を出にくくしている。これは政党の相乗りによる民主主義の弊害だ▼支持者にしても足立原市長に対する評価は決して100点満点ではない。マイナス点がどのくらいあるのか。無投票が2回も続くと政治に緊張感と活力がなくなるし、マイナス点もはかりようがない▼対立候補がいなくても、有権者に信任、不信任を下せる投票制度がないものかと思う。信任数が不信任数を上回れば続投、その逆の場合は辞職である。もちろんこうした投票に法的な拘束力があるわけではないし、投票そのものが制度として認められているものではない。だが、プラス点、マイナス点の評価をつけることにはなる。無投票になったとしても、政治に緊張感や活力を生み出すための、何らかの手立てが必要だ▼だが、それにしても足立原翼賛体制はますます強固なものになりつつある。足立原市長はこれが強ければ強いほど、反動もまた大きくなることを知らねばなるまい。

 市長の1日(86・11・15)

 都市経営総合研究所が行なった「首長の1日」というアンケート調査がある。市町村長が年間を通じて、どこに一番時間を使ったかという質問に、全国の首長が答えているのだが、興味深いのでちょっと紹介してみる▼まず、「1年間を通じてどこに一番時間を使うか」(予算編成、議会は除く)の質問には、1位が庁内での執務(87%)、2位が各種会合・あいさつ、顔見世(76%)、3位が市民との対応(58%)、4位が県・国への対応(36%)、5位が自分の勉強(11%)、6位が議会への対応(7%)、7位がマスコミとの対応(6%)である▼次に「もっとも気を遣うところは」の質問には、1位庁内執務(63%)、2位市民対応(56%)、3位議会対応(53%)、4位国・県への対応(33%)、5位各種会合あいさつ・顔見せ(30%)、6位マスコミへの対応(16%)、7位選挙への対応(八%)の順である▼また、土・日曜日、余暇をどのように使っているかの質問には、ほとんどの首長が会合や行事が多く、自分のことにあてる時間はないと答えている▼会合や顔見せには随分と無駄なものがあるし、重要でないものもある。明らかに代理でつとまるのに、それでも出なければならないのは、首長の立場や選挙対策もあってのことだろう。マメに顔を出していれば出席者が喜ぶと思っているようだが、あまり出すぎると閉口してしまう。

 共同化(86・12・1)

 厚木の文化を考える会が、提言『厚木づくりセクター』と題する報告書をまとめ、足立原市長に提言した▼厚木市文化行政懇話会が「第3の道を求めて―市民と行政の共同化」という提言を行なったのが昭和55年である。それ以降、共同化ということばが新鮮な響きをもって、まちづくりの新しい哲学として迎えられた。共同化とは市民と行政が対等の関係で何かを仕上げること。すなわち企画・立案から実践まで、すべて対等の関係で実行することである▼しかし、「共同化の市民的形成」が出来にくいこともまた事実である。これまでにもさまざまな組織形態でまちづくりが行なわれてきた。第3セクターは行政と民間、第4セクターは市民と行政、そして第5セクターが市民と民間の組み合わせである▼報告書にまた1つ新しいことばが出現した。市民と民間と行政が対等の関係で参加するという第6セクターの提言である。具体的には株式会社や組合、クラブ方式が考えられるという▼事業主体の組み合わせも結構だが、大切なことはやはり理念の習熟化であろう。政治の世界でライブリー(ライブリーポリティックス)な動き、住宅の世界でもコーポラティヴ(コーポラティヴハウス)な動きが出てきいる。われわれはもっと「共同化の市民的形成」のために意識のエネルギーを注がなければなるまい。 

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