厚木の大名 <N038>

荻野山中藩領知替         平本元一

山中藩知事名で出された高札。一揆・キリスト教等を禁じている。『荻野山中藩』より。

 上地とは土地をお上に返納することである(広辞苑)。荻野山中藩は宗家小田原藩とともに箱根戦争において、官軍の責めを負ったものの、藩の存続は認められた。しかしながら、小田原藩は藩主大久保忠礼の謹慎により、新たに大久保忠良を迎えることとなり、十一万三千石から七万五千石へと減封されたのである。
 では、支藩旧荻野山中藩の領知はどのような変遷をたどったのであろうか。シリーズ27・29で述べられているように、荻野山中藩の領知は相模国・駿河国・伊豆国に及んでいるが、慶応四年までの荻野山中藩領は石高およそ一万三千石、その内訳は、相模国領がおよそ三千石、駿河・伊豆国領がおよそ一万石である。
 慶応4年閏4月、徳川家達(田安亀之助)は、徳川家を継ぎ駿府七十万石への移封が決定される。これに伴い、荻野山中藩の駿河国・伊豆国領全ての上地と相模国への代知が決められ、9月、「高九千八百六拾石余其方伊豆国領知高今般上地被 仰付右代知並先般上地被 仰付置候駿河国領分為代知頭書之通下賜候旨御沙汰候事」の触書が、山中役所から相州六か村へ出されている(『荻野山中藩』)。相州六か村は、愛甲郡中荻野村・下荻野村・三田村・妻田村(以上現厚木市)、高座郡下溝村(現相模原市)、足柄上郡山田村(現大井町)である。
 しかし、同年中には領知替は行われないばかりか、新たに領分とされることとなった村々から荻野山中藩への編入の免除願いが出されたのである。これに対し、相模国領内の六か村は、翌年(明治2年)2月、六百十一人の百姓全員の連印をもって、藩の善政を説き、代知を進められるよう神奈川裁判所へ申し出たのである。これは、恐らく荻野山中藩自身が百姓へ出さしめたものであろう(『荻野山中藩』)。神奈川裁判所は神奈川奉行の行政事務を引継いだもので、明治元年4月20日に発足した。この裁判所は旧幕府直轄領を没収してその要地においた維新政府の地方統治機関であり、6月17日には神奈川府に改められ、さらに9月21日には神奈川県の設置に伴い神奈川県裁判所となった。そして管轄地は神奈川奉行と同様に奉行所から陸路およそ十里の範囲であり、小田原・荻野山中藩も含まれ、藩地の割替えも考えられており、小田原・荻野山中・六浦の三藩へは今代地を渡すとされている。上記9月の触書もこうした経緯からのものであろう。
 こうして明治2年3月、新たな領地が相模国に集中して山中藩領が成立したのである。即ち、中荻野村・下荻野村・三田村・妻田村・戸室村・温水村・愛名村・上古沢村・下古沢村・林村・関口村・山際村・上依知村・及川村・棚沢村・上船子村・恩名村・川入村・愛甲村(以上現厚木市)、下溝村(現相模原市)、山田村(現足柄上郡)、半縄村・角田村・八菅村・八菅山新田(以上現愛甲郡)の二十五か村である。総石高は壱万三千六百八拾四石弐斗三升五合六勺五才となる。
 新藩領の成立に伴い、山中役所は山中民政局と改称され、領内の村々では新たな藩政が期待されたのである。しかしながら、民政局とは名ばかりで、村々には前時代と変わらぬ五人組制度や郷中御条目などの触書が出された。例えば、郷中御条目では「此度大政御一新ニ付、御法度之儀者勿論、時々御布告之趣可奉守厳重事」「万一切支丹宗門於有之者、早速訴出候者江御褒美可被下置(後略)」「田畑永代売買堅御制禁之(後略)」などとあり、キリスト教の禁止、田畑の売買禁止などをうたっている。またこのほかにも火の用心や父母への孝行、道の掃除、家の修繕、他所への仕事の制限など細々としたことが列挙されている。また、五人組制度も村人の生活上の規制を細かに記しており、こうした制度がようやく廃止されるのは、荻野山中県が足柄県へ編入される明治4年頃とみられる。

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