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昭和24年、重昭が指導した寒川小のハーモニカバンドが合奏で、後藤邦彦が独奏部門のコンクールで優勝すると、当時全日本学生ハーモニカ連盟の会長だった前坂重太郎から重昭に電話があり、これからのハーモニカ音楽の発展のためにも、川口章吾のもとで本格的な音楽の基礎を学んでみないかとの提案があった。 重昭にとって川口章吾は神様のような存在だった。県立平塚農業学校2年の時、講堂で聴いた川口の演奏の感動がよみがえる。あの圧倒的な音はいまでも重昭の耳に残っている。 「川口先生に学べるなんて!」重昭の胸は嬉しさで高鳴った。 その年の秋の夕刻、重昭は川口章吾宅へ向かったのだった。小田急で相模大野に出る。連絡の悪い江ノ島線に乗り換えるのにそこで3、40分待つのが常だった。2両編成の電車に揺られ鵠沼海岸駅を降りると既に夜のとばりに包まれて、静かな住宅地がひろがる。 |
昔は沼が多かったらしく鵠沼と言う地名はその辺りに由来するという。街路灯は100メートル程ごとにしかない真っ暗な道を、教えられた通り歩くと7、8分程行った松林の真ん中に勾配のきつい屋根の洋館があり、そこが川口の家だった。重昭は応接間に通された。 壁際にはクラシックのレコードなどがたくさん並べられ、電蓄もあった。品のいい気さくな奥さんがお茶を運ぶ。 挨拶を交わし椅子に腰掛けると、50をちょっと越した年齢の川口章吾は優しい笑みを浮べながら「私は一切弟子をとらないんだ。だが全連から頼まれたので君だけは面倒みることにするよ。私の後継者になってくれないか」と言った。 重昭は上気して何を話そうか戸惑った。8年前の学生時代に川口の演奏を聴いたことを告げると、「そうか、あの時聴いてくれたのか」と一層やさしく頷く。重昭はこれから始まるであろう講義への期待に胸を膨らませるのだった。 月に2、3回、川口が手隙となる夜の7時から1時間くらいが講義の時間だった。川口は身の丈が重昭の目鼻くらいまでしかない小柄な割に口だけは大きく、横にカッと開くのだった。「ベースはこう入れるのだ」と、曲によってそのいれ方を変える。今まで聴いたこともないようなサーッという見事な伴奏を伴って『ハンガリア舞曲第5番』を吹いてくれる。 「凄いなあ!」重昭はただ感心するばかりだった。『牧場の朝』『越後獅子』『山の人気者』なども吹いて教えてくれた。時には自筆の譜面をくれることもあったが、川口が風呂に入ってる間に曲譜を写させられたりもした。 クラシック音楽への川口の造詣は深く、レコードはどれがいいの、演奏はどの交響楽団がいいのと重昭には刺激的な話ばかり聞くことができた。指揮法も編曲法もみな川口から学んだ。重昭の音楽的な成長は、20代前半の多感な時間、川口との邂逅によって遂げられたといっても過言ではない。 |
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