2002.01.15(NO2) 大正デモクラシーとハーモニカ

宮田東峰の楽譜「南国の夢」<岡本吉生蔵>

 日本の音楽史の中でもハーモニカの占める位置は特異だ。音楽表現をしようとする人々にとって楽器といえばハーモニカという時代が出現するが、ちょうどそれは、自由主義と民主主義の思潮が花開く大正デモクラシーの時代と重なる。
 社会の矛盾を正面から描いた島崎藤村の『破戒』が発表されたり、女性解放を主張する平塚らいてうが主宰する『青鞜』が創刊されたりする一方で、子どもの生活実感とはかけ離れた明治時代の唱歌教育に批判的な「もっと自由で豊かな、子どもの心に響く音楽を」という声も出はじめた。
 それに呼応するかのように、大正7年、鈴木三重吉が「世間の小さな人たちのために、芸術としての真価のある純麗な童話と童謡を創作する最初の運動を起こしたい」と『赤い鳥』を創刊する。
 翌8年には童謡第1号ともいえる西條八十作詞、成田爲三作曲の『かなりや』が『赤い鳥』誌上に発表された。また、同じ頃、厚木にもゆかりの深い林古渓の詞、成田爲三の曲になる『浜辺の歌』が発表され、竹久夢二の『宵待草』も大流行、自由な空気が横溢した。 それに呼応するかのように、大正7年、鈴木三重吉が「世間の小さな人たちのために、芸術としての真価のある純麗な童話と童謡を創作する最初の運動を起こしたい」と『赤い鳥』を創刊する。翌8年には童謡第1号ともいえる西條八十作詞、成田爲三作曲の『かなりや』が『赤い鳥』誌上に発表された。
 また、同じ頃、厚木にもゆかりの深い林古渓の詞、成田爲三の曲になる『浜辺の歌』が発表され、竹久夢二の『宵待草』も大流行、自由な空気が横溢した。
 当時、楽器業界の大手でもあった日本楽器の年間売り上げはピアノが90万円台、オルガンが40万円弱、ハーモニカは100万円を越えて、大正10年には132万円の年商をあげたという。以来、「若鮎ハーモニカバンド」が日中戦争によって自然消滅してゆく頃まで、ハーモニカのメーカーは楽器業界の雄であり続けた。
 山中恒著『ボクラ少国民と戦争応援歌』という本に興味深い調査が紹介されている。昭和14年、新潟のある尋常小学校の音楽的環境を調べたもので、普及率の高いのがラジオで52.2%、次がハーモニカで44.4%。3位が蓄音機で22.6%、ギターにいたっては0.3%、オルガン、ピアノはそれ以下であった。
 そうしたハーモニカの隆盛を象徴するように、大正12、13年頃になると、東京や大阪の出版社から1曲15銭から20銭で多数のハーモニカピース(曲ごとの楽譜)が発売された。
 刊行目録をみると『カルメン』『ダニューブワルツ』『ドリゴのセレナーデ』『アルルの女』『ベートーベンのメヌエット』『ユモレスク』『ウヰリアムテル』『アイーダ』『スパニッシュ・セレナーデ』『リゴレット』などカタカナ語のタイトルが並び、『かっぽれ』『春雨』『元禄花見踊』などの日本の曲はごくわずかである。また“初心者の好伴侶な模範的教本”と銘打って、宮田東峰の『ハーモニカ新活法』という本なども刊行された。
 その広告コピーには「ハーモニカ界の為めには一身を捧げるといはるる著者が、心血を注いで初学者の為にハーモニカの吹奏法を懇切に講述せられたる者にして70曲の楽譜を載せて供しゐる。定価60銭」と記されている。厚木のハーモニカを語る上で、その前史としての大正から昭和の初期にかけての時代は看過できない。

.