2003.02.01(NO20)  新潟へハーモニカ指導

仲村洋太郎一家
 重昭が単身、新潟へと赴いたのは昭和26年の夏のことだった。
 大矢博文や後藤邦彦、甲賀一宏たちが学生ハーモニカコンテストで次々に上位入賞を果すと、その指導者は誰だということがハーモニカ関係者の間で話題になった。
 新潟で学生ハーモニカ連盟の支部長をつとめる仲村洋太郎は、学校の器楽演奏の指導にあたっていた者が楽器の購入のため蓄えた金銭を持ち出して行方不明なのに困惑し、金にも女にも心配がなく、高校生を指導できる者がいないかと、全日本学生ハーモニカ連盟会長の前坂重太郎に打診していたのだった。
 前坂は既に重昭に川口章吾への入門を薦めるなど、23歳の重昭の傑出した指導ぶりに注目していた。
 「厚木に岩崎重昭という若い指導者がいる。彼なら人品卑しからず単身赴任も可能だろう」
 仲村の要請もあって、即刻前坂と副会長の井沢猛が岩崎家にやって来た。
 話はそれるが前坂は大正4年、早稲田音楽団の結成に力をつくし、早稲田大学の校歌を「早稲田マーチ」として管弦楽に編曲するなどの仕事もしたハーモニカ奏者で、後に宝塚歌劇のオーケストラの指揮者としても活躍する。
 重昭と父、芳太郎を前にあらたまって前坂と井沢が新潟の事情を話す。腕組みをして黙って聞いていた芳太郎は重昭にこう切り出した。
 「農業高校を出て、宇都宮農林に行ったのは何のためだ。家業は一体誰が継ぐ? 俺が病気にでもなれば食べていかれないだろう。ハーモニカで身を立てられるはずがない」
 重昭はごくりと唾を飲み込むと「月の内の10日は必ず帰ってきて家の仕事をす
る」と約束した。
 いくら「チゴイネル・ワイゼン」がうまく吹けても見向きもされず、音楽性よりは大衆性や娯楽性の方がハーモニカ音楽に求められているような現状に「とうていハーモニカで食べてゆくことはできない」という諦念もあった。「ハーモニカは趣味でやろう、地道な商売が俺には向いている」と重昭は心のどこかで考えていた。
 汽車で新潟に向けて上野を発ったのは夜の10時過ぎだった。夜のとばりに包まれて鏡と化した汽車の窓に、不安を微塵も感じさせない自信たっぷりの重昭の顔がぼんやりと映っていた。
 昭和22年の栃木県の新人音楽コンクールでの優勝に始まって、23年の第1回ハーモニカ独奏コンクールやオール横浜芸能コンクールでの入賞。そして24年、25年と教え子たちのコンテストでの大量入賞。重昭はいまの自分を信じていた。
 「新潟だろうとどこだろうと、俺はハーモニカを音楽として子供たちに教え込むことができる」
 それから6、7時間汽車に揺られて新潟に着いたのはまだ夜の明けきらない朝の4時半頃だった。
 逗留先に決められていたのは新潟市学校町にある仲村洋太郎の家だった。そこまではタクシーで30分もかからない。少し時間潰しをと、重昭は駅前で「湯」の看板をみつけると迷わず暖簾をくぐった。朝一番の風呂は旅の疲れを癒してくれるに充分だった。
 仲村洋太郎は3人の医者と6、7人の看護婦などを使う中堅の産婦人科医であるとともに、尺八の演奏家でもあった。それまでの尺八とは違う新しい尺八音楽の創出に意欲を燃やし、  
”新傾向尺八“として注目もされていた。

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