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重昭の新潟への赴任は昭和26年からわずか2年足らずではあったが、学校での器楽合奏を盛んにしたいとの熱い情熱に燃える仲村洋太郎の手厚い待遇も手伝って、20代半ばの重昭に豊かな音楽的成長をもたらすこととなる。 さまざまな音楽家との出会いはもちろん、重昭が編曲のために必要といえば、仲村はクラシック曲のスコアやレコードまでも買い与えてくれた。そして何よりも音楽に真摯に対する生徒たちとの指導を通じた交流が、いっそう深く自らの音楽経験を耕す契機になったのである。 |
高校生のなかには相当楽典に詳しい者もいた。 「先生、ここの和音は……」などと突っ込んだ質問も常だった。 重昭にとって自信のない質問には「こんど調べておくからな」と言って自室に戻っては音楽理論の書物に首っ引きになる。時には「万松堂」という新潟の楽器屋に出向いてその手の音楽書を片っ端から立ち読みもした。かつて川口章吾に学んだ音楽理論や編曲法、指揮法などが大いに役立ったのは言うまでもない。だが最終的には自力で懸命に学び、血肉とせざるを得なかった。 1曲の編曲のためにもレコードを何べんも聴いて、スコアを分析する。オーケストラの総譜に書かれた楽器は、例えばピアノはC調であってもトロンボーンはB♭などと楽器ごとに調子がまるで違う。まずそれらをハ調に移調し、楽器の音色を研究した上で各パートごとの譜面をつくるのだった。 徹夜でペンを走らせては昼頃まで眠る。そんなふうにして「軽騎兵序曲」や「クシコスポスト」「ペルシャ行進曲」「スペインのセレナーデ」「美しき青きドナウ」「カッコーワルツ」などを仕上げていった。 そんな新潟時代にもやがてピリオドを打つ日がやってきた。 重昭の父、芳太郎の喘息もひどくなって、家業の種苗店も気にかかってはいた。いよいよ厚木に帰らねばと重昭は覚悟を決めた。幸いあとを引き継いでもいいと、東京から陶野重雄や大場善一などの優れた指導者がやってきてくれることになった。 重昭が辞めるときに十数校だった器楽合奏の指導校もその2、3年後には40校近くまで増えた。昭和25年に始まった新潟県下の学校同士で競う「新潟県学生ハーモニカ定期発表演奏会」も年々盛んになった。そしてここでの入賞校が「全日本ハーモニカコンクール東日本大会」でも上位入賞組に顔を出す。重昭の蒔いた種が確実に育っていったのだった。 「先生、また新潟に来てくださいね」女子生徒をはじめ重昭の指導を受けただれもが、重昭との別れを悲しんだ。 叱ったこと、キャラメルやアイスクリームをおごったこと、音楽室での猛練習で汗を流したことなどすべてが昨日のことのように重昭には思われた。 昭和28年、巷には棒切れを振り回してチャンバラやおしくらまんじゅうに興じる下駄履き、草履履きの元気な子どもたちの歓声が響いていた。若い女性たちといえば、映画「君の名は」のヒロインにあやかってマフラーやショールを頭からかぶって首に巻く“真知子巻き”で街中を闊歩する姿も目立った。 小学校の音楽にハーモニカや縦笛や木琴などの器楽が導入されはじめたのもこの頃からだった。 |
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