2003.04.15(NO25)  麻溝小学校へ指導に

麻溝小学校での指導
 ブルルーン、ドッドッドッドッ……。お腹まで響くようなマフラー音をとどろかせて一面桑畑の中の砂利道を、土煙をあげて重昭の乗った大型バイク「メグロ号」が行く。向かう先は高座郡相模原町の麻溝小学校だ。昭和27年の夏のことだった。新潟と厚木との間を行ったり来たりの合間に、月に何度か麻溝にもハーモニカ指導に行くことになったのだ。
 木造平屋の児童数数百人の学校近くにはディーゼルカーが導入されてまもない単線の相模線が走り、およそ20年前の昭和6年に開業した原当麻の小さな駅舎が建っていた。
 駅前には駄菓子から食料品まで何でも扱うよろずやが1、2軒あるくらいのさみしい風情だった。2、3両編成の客車が朝8時頃に1本出ればあとは貨物車も含めて午後に何本かというくらいのどかなローカル線で、あたりの静寂をつんざく甲高い汽笛がたまに鉄道の存在をアピールするくらいの、のどかな田園風景がどこまでもひろがっていた。
 麻溝小での指導が決まったいきさつは、この学校に赴任してまもない30歳そこそこの神崎象三先生の要請があってのことだった。神崎先生の実家は農家で、ホウレンソウや大根など野菜の種を買い付けに重昭の種苗店をよく利用していたのだった。以前から重昭がハーモニカの名手であることは知っていた。
 終戦から7年経つとはいえ、まだまだ物も食料も乏しい時代だった。子供たちの心にうるおいがほしい。放課後の課外授業に音楽がいいかな、ハーモニカなら手軽そうだ、と神崎先生はおぼろげに考えた。すぐさま思い浮かんだのは重昭のことだった。
 「そうだ、彼に指導をお願いしよう」
 重昭から快諾の返事をもらうと、4年生の児童たちにこれからハーモニカを始めるが、やりたい者はいないかと呼びかけた。20人ほどの児童がハーモニカをやると言ってきた。金井正敏先生が受け持つクラスからの応募者が多かったので、子どもたちの面倒は金井先生にお願いすることになった。
 金井先生は神崎先生より3、4歳年下で、相模原の田名から自転車で通う若い先生だった。厚木中学の出身で、以前に重昭のハーモニカを聴いたことがあった。5年生の頃だったか重昭が学校に演奏に来たのだった。何本ものハーモニカを操るのを印象的に覚えていた。音楽にはまったく縁がなく自信もなかったが、重昭の家までハーモニカを習いに通う児童と一緒に連れ立って、ハーモニカを初歩から学ぶことにした。
 バスやテナーのハーモニカは重昭から中古を譲りうけた。ソプラノは重昭の斡旋でそれぞれ個人で買い揃えた。アコーディオンなどはPTAの補助を頼んで購入した。
 「いいか、ローソクの炎がこう揺れないように吹くんだぞ」
 「このハーモニカは、熱いお湯をホッーと冷ますだろ、そんな風に吹くんだ」
 重昭は具体的に、実際的にハーモニカの吹き方を子どもたちに教える。金井先生は重昭の指導ぶりを見よう見まねで真似てその通りに教えた。その熱心さは半端でなかった。
 当初クラブ活動としては整っていなかったハーモニカ合奏団も、翌昭和28年にはいよいよクラブ活動として本格始動することとなった。

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