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昭和27、28年頃の麻溝は、時間さえ止まってしまっているかと思われるほどの静かな農村だった。朝に夕に炊事の煙がたなびき、鳶も時おりピーヒョロロと甲高い鳴き声を上げては悠然と空高く輪を描く。 遊び盛りの子どもたちは繁華な上溝まで出るまでもなく、近所の子ども同士でかくれんぼや相撲、チャンバラなどで自足していた。塾などももちろんなかった。とは言え養蚕農家が多く、春蚕期や夏蚕期、初秋、晩秋蚕期には猫の手も借りたいほどで、子どたちも重要な働き手の一員として駆り出されるのだった。 |
柔らかい葉のついた桑の枝を剪定ばさみで切っては束ね、リヤカーに乗せて運ぶ。日に何度か、取ってきた桑の葉を蚕にやる。ざわざわと音をたてて蚕がその端から器用に食べるさまは見ていて飽きない。すっかり食べつくされた桑の枝の下に溜まった緑色の砂粒のような蚕の糞の始末から繭玉の収穫まで、子どもたちはなんでも言いつけられるままに手伝った。 麻溝小学校に赴任して間もない二十歳そこそこの若い金井先生が、神崎先生からハーモニカクラブの指導をやるよう乞われて一瞬とまどったのも無理はない。自分が音楽の「お」の字も知らないということよりも、放課後、ハーモニカをやるというそのことに親たちの理解を得る方が大変そうに思われたのだった。それでも学生時代、在籍した厚木中学で聴いた重昭のハーモニカの音色が頭の片隅にしっかりと残っていたし、神崎先生の取り計らいで月に2、3回は重昭がハーモニカ指導に来てくれる段取りとなって、自分も学びながら子どもたちと一緒にやってみようという気になったのだった。 「何かひとつ子どもたちが自信をもてるものをつくってやりたい」 教育者としての金井先生の情熱は、「熱心だ」と先輩格の神崎先生をうならせるほどに熱かった。重昭から工面してもらった中古のハーモニカなどで、なんとかハーモニカクラブとしての体裁は整えた。週に何回か、最初は基本的な音階練習から少しづつ簡単な曲をまぜて、フォスターの「スワニー河」などを練習した。昭和28年の11月には全日本学生ハーモニカ器楽合奏コンクールに初めて挑戦したが、入賞は果せなかった。しかし子どもたちにとっては貴重な体験となった。 「よし、来年は賞をとれるように練習をがんばろう」 金井先生の奮起を促す言葉に、純朴な子どもたちは闘志をみなぎらせて目を輝かせた。 翌昭和29年にはアコーディオンを2、3台導入し、「麻溝小リード合奏団」として新たなスタートを切った。再び巡ってきた秋のコンクールに今度は重昭が編曲した「美しき青きドナウ」で挑戦した。結果、見事3位入賞を果したのだった。子どもたちの喜びはもちろんのこと、これまで熱心に取り組んできた金井先生の喜びはひとしおだった。コンクールでの入賞はいよいよ子どもたちの自信を深めた。はじめはいい顔をしなかった人たちも次第に「リード合奏団」に温かい目を向けるようになった。校長も教頭も地域の人たちもPTAも応援してくれて、コントラバス、ティンパニーなどの楽器も次第に揃っていった。 「ようし、これからは早朝に20分、帰りに20分、毎日練習しろよ。譜面も暗譜して指揮者から目を離さないようにするんだ」 重昭の指導にも力が入った。演奏曲も次第に難しいものになっていった。 |
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