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戦後10回目の新年を迎えた昭和30年、巷間では春日八郎が歌う「お富さん」が大流行、人々も「死んだはずだよお富さんcc」と口々に盛んに歌っていた。
そんな年の冬のさなかにしてはめずらしく暖かな陽気の2月15日のことだった。金井先生は重昭にさそわれて横浜の盲学校、訓盲学院へと赴くこととなった。ちょうど川口章吾が訓盲学院に指導にくるということで、麻溝小学校でのハーモニカ指導の参考にしたいとの一念で金井先生は重昭の誘いにのったのだった。 訓盲学院は山の手の丘の上に建つ、洋館づくりの瀟洒な建物だった。学院長の今村先生は音楽教育にたいへん熱心な人だった。 |
音楽室では目の不自由な子どもたちが川口章吾の方を向いてハーモニカを構える。およそ二十数名もいようか、光を失ってなお、互いの心を通わせてひとつの音楽に立ち向かう。その姿に金井先生は目を見張った。
「三、四cc」川口の掛け声に促されて一斉にハーモニカ合奏が始まる。曲の途中で金井先生の目から、はからずも熱い大粒の涙がこぼれ落ちた。 「岩崎先生、麻溝も今年こそ人の心に届く音楽をやりたいです」 桜木町駅まで歩く道すがら、いまだ覚めやらぬ興奮のまま金井先生は重昭にそう言った。重昭は黙って頷いた。 ちょうど伊勢佐木町にさしかかった時だった。今井正監督の新作映画「ここに泉あり」の看板が二人の目に入った。この映画は群馬交響楽団の前身である高崎市民オーケストラの草創期を描いた作品で、映画のなかでいくつかの名曲がその映像とともに聴かれる、封切られたばかりの話題作だった。重昭も金井先生も「よし、観て行こう」とすぐに意を決して映画館に飛び込んだ。 映画を見終わると、そのなかで演奏されたシューベルトの「ロザムンデ序曲」がことに金井先生の心に引っかかった。 「岩崎先生、これを麻溝の子どもたちに編曲していただけませんか」帰りの電車のなかでそうもちかけた。重昭もこれはいい曲だ、と太鼓判を押した。 後日さっそくに重昭はLPレコードとスコアを買ってきて、編曲に取り掛かることにした。もともと十数分の作品を、川口章吾の助言をもらいながらハーモニカ演奏用に7分くらいに縮めるのだったが、それがなかなかの難作業だった。レコードを何遍もかけてはスコアをにらんで、「これはオーボエか、ここはチェロとビオラだからcc」と書いては消し、書いては消した。 雨が降っても晴れても、金井先生は3日おきくらいに駒下駄をはいて重昭宅へ通い詰めた。わら半紙に2、3枚づつ仕上がる編曲を「ここはこういう風に吹いて」と、そのつど教わり、持って帰るのだった。 12、3小節、多い時で22、3小節のできたばかりの譜面を放課後、金井先生は子どもたちに口伝えして覚えさせた。ガリ版を切るまでもなく、パートごとに何度も何度もその音階を口伝えし、体に覚えさせる。繰り返すうちに子どもたちは見事に暗譜するのだった。 半年近くかかってようやく「ロザムンデ序曲」は完成した。この間、金井先生は何度も夜が明けるまで重昭に付き合った。そして一睡もせずに小学校へと向か う日もあった。 重昭も金井先生もお互い20代という若さ故にできたことなのだと今にして二人は思う。 |
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