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話は少し戻るが、佐藤秀廊に師事した新井克輔や松村博、大条正親らによって、ハーモニカの芸術的ともいえる奏法を普及しようと「佐秀会」が結成されたのは昭和21年。その3年後の昭和24年、佐秀会機関紙の「佐秀会報」が発刊される。同年、佐秀会の定期演奏会も代々木八幡の公会堂で開催されている。
昭和27年、重昭のもとへ佐藤秀廊から一枚のはがきが届いた。代々木上原へ転居したとの知らせだった。 重昭がかつて宇都宮時代に、宇都宮女学校の音楽室で開催された演奏会で、席の最前列に座って佐藤秀廊の生の演奏に間近に触れた日のことが思い起こされる。 編曲のすばらしさ、澄みきった音色、ことにピアニッシモの美しさ。演奏会がおわると佐藤が宿泊する旅館まで行って奏法の要点を尋ねたことや、ガリ版刷りの「青葉の笛幻想曲」をもらったことなども、つい昨日のことのように思い出されるのだった。 |
転居通知を手に、さっそく重昭はひとり新居の佐藤家を訪れた。佐藤は倭子夫人ともども重昭をにこやかに迎えてくれた。しばし近況報告に花が咲き、重昭は小学校でのハーモニカ指導をしていることなどを話した。
分散和音の素晴らしさを知ったのも、また音楽とはテクニックではなく“心”だということを学んだのも佐藤秀廊からだった。 帰りがけ佐藤は重昭に「佐秀会」の神奈川の支部長をやってくれないかともちかける。弱冠24歳の重昭は、責務の重さを感じながらもその申し出を受けることにした。 「そうだいっそうハーモニカの素晴らしさをたくさんの人に知ってもらおう」 帰りの小田急の車中、重昭はめらめらと燃えるようなハーモニカへの情熱を強く意識するのだった。 まだ佐秀会の中央同人が30名にも満たない頃の昭和29年10月17日、実質的には佐秀会の第1回となる定期演奏会が銀座のヤマハホールで開かれた。ここが選ばれたのは当時の東京でも地の利もよく、近代的な設備を備えたホールだったからだろうか。 この演奏会には安部恵一や小坂井雅敏、間中勘などにまじって重昭も独奏で「チゴイネルワイゼン」を演奏し、さらに重昭をリーダーとして、大矢博文、金井正敏、平井武の各ハーモニカに、ギターの田中久夫を加えた岩崎五重奏団も重昭の編曲したロシア民謡と「ラ・クンパルシータ」を演奏したのだった。岩崎五重奏団の演奏が終わるやいなや、立ち見が出るほどの満席の客席からやんやの拍手をもらう。ほとんどがソロの演奏のなかで五重奏団のアンサンブルの美しさが光った格好となった。重昭たちはこの日のために一年くらいかけて一生懸命練習を重ねていた。 翌年から昭和50年の第26回までは上野文化会館の小ホールを会場に定期演奏会は開かれたが、その年の演奏会で、出演者の一人がプログラムに載せたクラシック曲とはまったく違う「東京ラプソディ」などの歌謡曲を演奏したことや、物品販売を禁じていたにもかかわらず展示したハーモニカを参会者の懇願に応じて売ったことなどが会館の管理者に知れて、以後このホールは佐秀会の定期演奏会には貸してもらえなくなるのだった。上野文化会館は東京都の公共性の高い施設で、市民文化の向上に役立つ興行にしか使用できなかった。歌謡曲などもってのほかだったのだ。 以降、再び定期演奏会は銀座のヤマハホールで開かれることとなる。 |
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