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「座間でもやらないか」 麻溝小の金井先生は座間第一小学校の野崎先生にそうもちかける。野崎先生は座間第一小に昭和29年に赴任して2年目、金井先生とは厚木高校での同級生という仲だった。すぐに麻溝小のリード合奏団を見学に行くことにした。 眼をキラキラとさせて、金井先生のもとで「ロザムンデ序曲」などの練習に精を出す子どもたちを見て野崎先生は心が高鳴った。 「どの子にもそれぞれいろんな能力があるはずだ。やればできる、そんな自信をうちの子どもたちにも持たせてやりたい。座間でもやろう」 早速、金井先生を通して、ハーモニカの指導を重昭に請うことになった。 座間第一小には既に崎元というPTAの一人がボランティアで、クロマチックハーモニカだけの合奏団を指導していた。彼はアメリカ資本の保険会社の社員で、複音ハーモニカの他にクロマチックハーモニカも趣味で演奏していた。 当時、複音ハーモニカが550円くらい、ホーナーの12穴クロマチックが1,500円くらい。総勢30人ほどのクロマチックだけの合奏というのは珍しかった。とはいえレパートリーは「アニーローリー」や「スワニー河」などで、ユニゾンで奏するだけの、編曲にあまり手を加えない単調な演奏だった。昭和30年の「第一回県下学生器楽合奏大会」には崎元の指揮でそのクロマチックハーモニカバンドも出場している。 |
同年、そこに重昭が指導するハーモニカ合奏団が誕生することになる。日頃の講堂での練習は野崎先生に任せることにした。野崎先生は理科主任だが音楽も大好きだった。 「朝30分、放課後30分、これは毎日続けてください」 重昭の要請を野崎先生はしっかりと実行した。 ソプラノシングルやアルトシングル、ホルン、コントラバス、それに大太鼓や小太鼓、ティンパニーやアコーディオン、木琴、ピアノなども加えて「オリエンタルダンス」や「デザートキャラバン」「ペールギュント組曲」などに取り組んだ。 クロマチックだけの合奏にくらべはるかに迫力のあるリード合奏団の方に、次第に子どもたちが移ってくる。 「先生、きょうもあちらから3人がこちらに入ってきましたよ」「きょうは7人がこちらに・・・」 そんな報告を何度となく重昭は野崎先生から受けるのだった。3ヶ月もしないうちに50人ほどの大所帯となった。図らずもクロマチックハーモニカバンドは自然消滅という格好になった。重昭はそれ以降、崎元の姿を学校でみかけることはなかった。 昭和32年、リード合奏団にやがて当の崎元の子息、崎元譲が参加してくる。特に目立ったところもなく、重昭はさほど印象深く覚えているわけではないが、崎元譲はソプラノホルンやバスハーモニカを吹くやさしい少年だった。 この人こそやがてドイツ留学を果し、そこで出会ったトミー・ライリーの元でクロマチックを学び、世界的なプレイヤーとして活躍する、かの崎元譲その人だった。 |
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