2003.12.15(NO41)  成長する経済、退潮のハーモニカ

建て替え前の岩崎種苗
 昭和35年に成立した池田勇人内閣の「国民所得を2倍に」の掛け声のもとで、日本は高度経済成長へとひたすら舵をとることになる。今日よりはあした、あしたよりはあさってがいい暮らしになるに違いない。誰もがそんな思いのなかに生きていた。やがて東京オリンピックを前に東海道新幹線が開業した。夢の超特急「ひかり」はまさに右肩上がりの時代を象徴する乗り物だった。
 一方、昭和35年5月、日米の安全保障条約をめぐって衆議院の特別委員会で新安保条約・協定が強行採決されると、全学連のデモ隊が安保反対を唱えて国会議事堂をとり囲み、警官隊と衝突して、東大生樺美智子が死亡した。意味などわからずに、不思議な響きの言葉だけを真似て「アンポ、ハンタイ。アンポ、ハンタイ」とデモごっこに興じる子どもたちの姿が日本のあちこちでごく普通にみられるのだった。
 また、ちょうどこの頃には子どもや若い人たちの間では、一個180円の「ダッコちゃん」というビニール製の黒い人形が爆発的に大流行。およそ240万個が売れたという。
 未来が確かに信じられていた証なのだろうか、舟木一夫の「高校三年生」や梓みちよの「こんにちはあかちゃん」も大ヒット、人々に口ずさまれるなか、昭和39年10月10日、“世紀の祭典”東京オリンピックは開会した。
 日本晴れの真っ青な空の下を白い一筋の煙をたなびかせて最終聖火ランナー、広島出身の大学生、坂井義則が美しいストライド走法で駆ける。代々木の国立競技場のトラックを半周まわり、観客席の間の163の階段を一段一段、一気に駆けあがって最上段までたどり着くと聖火台の横にこちらを向いて立つ。そして大きく呼吸して聖火トーチをかざし、聖火台に火を点した。その瞬間、ボッという音とともに炎は天空を焦がし晴れがましいセレモニーはいっそう高揚する。競技場を埋める5万の観客から大きな拍手が沸き起こる。トランペットのファンファーレが高々と鳴り響き、古関裕二の作曲した「オリンピック・マーチ」が大編成のブラスバンドによって演奏される。
 普及しはじめたばかりのカラーテレビのブラウン管は、赤と白のコスチュームに身を包み、国旗と手を振りながら誇らかに行進する日本選手団の姿を映しだしていた。
 その後15日間にわたって、ソ連を破って金メダルをとった“東洋の魔女”といわれた日本女子バレーの活躍や体操で繰り出される“ウルトラC”の妙技、重量挙げの三宅選手やマラソンの円谷選手などの活躍が茶の間の話題の中心だった。
 オリンピックで日本中が沸く頃、国道246号線が全線開通して、やがて東名高速道路も開通し、厚木の街もにわかに変貌を遂げ人口も10万に迫った。
 それまでは、ちょっと裏道へ入ればバーや写真屋や電気器具店が点在するだけで、駅前らしいにぎやかさはない本厚木駅周辺だったが、羽根沢屋デパートの進出を皮切りに、厚木の老舗や町田の商店が続々と店を構え、呉服、洋品、時計やメガネ、喫茶店などが出揃い、すっかり商店街として生まれ変わっていた。
 重昭の種苗店も3階建てのビルに建てかわり、家業の仕事もますます忙しくなった。厚木リード交響楽団が解散し、それまでハーモニカ指導に赴いていた小学校や中学校の先生たちが転任や退任で入れ替わると、重昭の足も自然と学校から遠のいていった。クラブ活動もリード合奏から、あのオリンピックで印象深いブラスバンドへと移行してゆき、ハーモニカは教育現場からも次第に消えて行く運命をたどるのだった。

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