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昭和26年、そして昭和30年に再び来日したラリー・アドラーのコンサートを聴いて以来、平井はすっかりクロマチックハーモニカのとりこになっていた。大学を卒業して国立相模原病院の検査技師として働きはじめ、初任給が9千円ほどでしかなかった時代に、銀座十字屋で売っていたホーナーのクロマチックハーモニカは2千円もした。 はじめはひとりでクロマチックを吹いていた平井だったが、何年かのち銀座のヤマハ楽器で買い求めたハーモニカ・ピースを元にバス、コード譜をつくり、厚木市役所に勤めていた大矢博文を誘って、バス付きのコードハーモニカを担当してもらい時々は二重奏を楽しんだりしていた。「ブルー・ムーン」や「ナイト・トレイン」などが主なレパートリーだった。 一方、重昭も平井や大矢たちとラリー・アドラーの演奏を昭和30年に日比谷公会堂で聴いて以来、クロマチックの魅力に圧倒されて、すぐにハーモニカを買い求めていたのだった。 ところでスライド式のクロマチックハーモニカが出現したのは大正時代の終りの頃といわれている。その100年近く前にクロマチックハーモニカの原型ともいえる押しボタン式の「シンフォニウム」というハーモニカを英国のホイールストーンが作り、特許を得ているが商品には至らなかったらしい。特許の切れた後にドイツのホーナー社が「スーパー・クロモニカ」という12穴、3オクターブのクロマチックハーモニカを初めて世に出す。ちなみに日本では昭和11年、トンボ楽器製作所が初めて作り、定価4円で発売したという。レバー操作で半音が出せて、楽器としての完成度が高まったわけだが、その歴史はまだ浅い。以後さまざまなプレイヤーたちによってクロマチックは使われることになる。 「ペグ・オー・マイ・ハート」がアメリカをはじめ世界中で200万枚も大ヒットを飛ばし、人気のあったハーモニカトリオ「ハーモニキャッツ」のリーダー、ジェリー・ムラッドが吹いたのもクロマチックハーモニカで、それにバス、コードが加わった編成だった。やがて日本で森本恵夫が、波木圭二、鶴田亘弘らと昭和43年に結成した「ブルー・ハーモニキャッツ」も同じ楽器編成で、森本がクロマチックを担当しメロディをとった。俄然、クロマチックハーモニカの存在が光っていた。 重昭の複音ハーモニカが中心のハーモニカバンドも、それまではアコーディオンやギターやトランペットが入ったりというスタイルだったが、次第に重昭がクロマチックを、平井がバスを、大矢がコードという具合に自然と定着し、たまに後藤邦彦か竹内暉がホルンハーモニカで加わったりするようになった。 「これからは軽快な曲もやっていこうじゃないか」重昭の提案に平井も大矢も賛同した。ことにメンバーの中で一番若い大矢はジェリー・ムラッドに心酔してもいた。 昭和49年11月9日に厚木市文化会館で開催された「第3回厚木市民音楽祭」に「岩崎リードバンド」というグループ名で「ナイト・トレイン」を演奏した記録が残っているが、そろそろ3人で本格的なハーモニカバンドを組もうとしていた時期の出演ではあるのだが、はたしてトリオだったのかカルテットだったのかは定かでない。 |
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