2004.04.01(NO48)  「ハーモニカ150年祭」の取り組み
 昭和30年以降、リコーダーの普及に押されるように音楽教育現場でリード楽器が衰退の一途をたどる。ハーモニカという楽器が人々からも忘れられようとしていた。   
 沈みかけた船を引き揚げようと努力する人はいつの時代にもいる。けれど、それが成功するかどうかは不確かだ。ハーモニカの場合は成功への一里塚を作ったといっていい成果をおさめたのだった。それを牽引したのは佐藤秀廊とその弟子たちで、その中心に斎藤寿孝がいた。
 150年前にドイツの時計職人、クリスチャン・メッスネルがハーモニカの原型を作ったという説を根拠に、昭和52年、この機に一層ハーモニカの振興に力をいれようと、ちょうど創立50周年を迎えた全日本ハーモニカ連盟が主体となって、「ハーモニカ150年祭」のキャンペーンを1年間、全国展開したのだった。


 演奏する佐藤秀廊
 ハーモニカメーカーの最大手、ドイツのホーナー社をはじめトンボ楽器もこれをバックアップ、全国各地で統一ロゴマークを冠したコンサートなどが企画された。
 この経緯について佐藤秀廊がおもしろいエピソードを綴っている。昭和52年8月9日、東京文化会館小ホールを会場に開催された「全国佐秀会合同大演奏会」のプログラムに掲載された次のような一文だ。
〈私が昭和2年にドイツの「世界ハーモニカ100年祭」に招かれた時の話に花が咲いたことがあった。その時に、中央同人のひとりが、来年は昭和52年で丁度150年になる、今度はひとつ我々佐秀会の手で「ハーモニカ150年祭」をやろうと云い出した。それに賛成した私は、しかしこれは大きな試みだから、佐秀会の手でやるより全日本ハーモニカ連盟でやるべきだと考えた。早速そのことを連盟会長の真野泰光氏に相談したところ大賛成で、ではひとつ全連を改組して大々的にやろう、ということになった。改組が済むと、「ハーモニカ150年祭」に関する企画案がつぎつぎと実行に移され、NHKをはじめ諸団体、有志の協力を得てまさに電光石花の如き展開が東京で始まった〉
 「全国佐秀会合同大演奏会」も“ハーモニカ150年祭記念”を大々的にうたったコンサートだった。
福岡の大石昌美や愛知の石川澄男、岩田皇次郎、香川の加藤修成、京都の梅田恒弘、大阪の鈴木弘道、長野の岩崎嵩、山形の佐藤茂、静岡の遠藤紀男らこれまでに出演機会の少なかった力のある地方の会員たちの演奏に加えて、重昭が複音、後藤邦彦がソプラノ・ホルン、大矢博文がコードハーモニカ、平井武がバスハーモニカという編成で「厚木ハーモニカカルテット」もロシア民謡の「郷愁」を演奏、大きな喝采を浴びた。重昭はソロでも演奏、「マラゲーニャ」をクロマチックで吹いたのだった。佐藤秀廊は斎藤寿孝の指揮する佐秀会室内合奏団の伴奏で「からたちの花」と「戦友に捧ぐ」を演奏した。
 同年、11月27日には東京の九段会館でやはり150年祭を記念する大がかりなハーモニカコンサートが催された。午後から夕刻にかけて延々4時間に及ぶコンサートは斎藤寿孝の司会進行で進められた。宮田東峰も挨拶に立ちその一部始終を見守った。佐秀会室内合奏団と東京音大の「ロルケ・デ・アルモニカ」が合同で祝賀演奏をする。崎元譲や窪田広吉、森本恵夫がオーケストラをバックにクロマチックを披露する。重昭はやはりクロマチックで「マラゲーニャ」を演奏した。まだ20代の八木のぶおや松田幸一、妹尾隆一郎などのテンホールズ奏者も熱演する。ほかに「川口ハーモニカ楽団」や「中央大ハーモニカソサエティ」、幼稚園児や小学生のリード合奏団なども舞台に上がって賑やかな演奏を繰り広げた。ステージの最後は佐藤秀廊の独演で締めくくられたのだった。客席には小田原の綿貫誉の姿もあった。ハーモニカの再浮上を願う関係者の思いは熱かった。

.