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淀橋浄水場の跡地だった広大な敷地の一角に、すっくと空を独り占めするように、地上178メートル、44階建ての威容で京王プラザホテルが出現したのは昭和46年のことだった。初めてそれを目撃した人々の目にはその光景はまったく奇異なもの、異様なものに映ったにちがいない。
新宿副都心計画の事業決定を受けて、着工から3年の大工事だった。それから数年の内には、新宿の副都心に新宿住友ビル、KDDビル、新宿三井ビル、安田火災ビルと次々に200メートル級の高層ビルがその高さを競いあうように建ち並ぶ。しかし昭和52年当時は、ニューヨークの摩天楼を思わせる現在のありようとは異なって、一帯にはまだ空き地も多く、無計画で無機的な都市の様相を呈していた。
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新宿の西口広場から新宿三井ビルまでは歩いて数分の距離だった。デッキ状の通りとビルの入口の間には広場が設けられ「55(ゴーゴー)ひろば」と名づけられていた。55階建てのビルにちなんだ愛称だった。そこでは新人歌手が新曲の発売キャンペーンを兼ねたコンサートを開いたり、さまざまなコンサートなどの企画がやられていた。
昭和52年9月23日には「おめでとう!! ハーモニカ150年POP’Sコンサート」が開催された。「ハーモニカ150年祭」キャンペーンの一環として全日本ハーモニカ連盟が主催したのだった。 プログラムには明治大学や中央大学のハーモニカソサエティーによる演奏や八木のぶお他、さまざまなハーモニカ奏者の演奏が組まれた。屋外に積まれた大きなスピーカーからはハーモニカのあたたかく、人なつこい音色が拡声されて響き渡る。通りがかりの人たちが一瞬足を止めて好奇なまなざしで見つめる。なかにはすっかりハーモニカ演奏に関心を寄せて聴き入る者もいる。にわかに200人か300人位の観客ができる。演奏が終わると大きな拍手が沸き起こる。素直な聴衆の反応がストレートに伝わる。気ままな雰囲気のコンサートは出演者にも張り合いがあって嬉しかった。 全日本ハーモニカ連盟はこれ以後も、昭和53年、昭和54年と毎年、「ファミリー・POP’Sコンサート」を企画した。 昭和53年10月22日は日曜日だった。「55ひろば」の前の通路は相変わらず、若いカップルや子ども連れの家族などがショッピングや展望台めあてに激しく往来する。にわかステージの設えられた広場を、時折ヒューッと、日除けのパラソルを飛ばすかと思わせるほどのビル風が吹き抜ける。譜面台に置いただけの譜面などはいとも簡単に吹き飛ばされてしまうだろう。演奏者はクリップでしっかりとそれを譜面台に固定しなければならなかった。 この日、「厚木ハーモニカトリオ」は初参加で、「ナイト・トレイン」「津軽海峡冬景色」「枯葉」の3曲を演奏した。この時期重昭はまだクロマチックハーモニカにこだわりを持って主にこれを使っていた。 翌昭和54年10月10日、「体育の日」に開催された同コンサートには再度「厚木ハーモニカトリオ」が出演した。白いブレザーを着込み、上着だけ揃えた舞台衣装で「セントルイス・ブルース」と「北国の春」を演奏して会場を沸かせた。 昭和53年だったか54年だったか不明だが、いずれかのコンサートに、その後厚木を代表する若手プレイヤーとして活躍する岩間朱美や西村充も出演していた。二人ともまだ小学校に入学したばかりの可愛いこどもだった。岩間は横浜本郷台の岡田由美子の指導のもとでハーモニカを学ぶ小学生2、30人と一緒の参加だった。西村は重昭のもとで学ぶ他の小学生数人と一緒で、重昭が連れて来ていたのだった。こどもたちの演奏は微笑ましくもあり、聴衆の関心をひいて拍手もひときわ大きかった。 |
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