2004.05.01(NO50)  感激の初リサイタル

初のリサイタルで演奏する重昭
 ハーモニカの復活が兆しはじめていた。昭和52年の「ハーモニカ150年祭」のキャンペーン、そしてハーモニカが日本にやってきて85年という節目の年にあたる昭和56年に、今度も全日本ハーモニカ連盟が主動的に展開した「ハーモニカ渡来85周年」キャンペーン。  このとき重昭は53歳、ハーモニカを手にして43年、
”復活“の一翼を担うひとりだった。ことにこの20年間はひたすら後進の指導とハーモニカの普及に力を注ぐ日々だった。前年の昭和55年には、重昭はそうした功績により、全日本ハーモニカ連盟から「日本ハーモニカ賞」を受ける。これもひとつの契機だった。翌年6月21日、厚木労働センターホールを会場に初めてのリサイタルを開くことにしたのだった。
 神奈川新聞が6月12日の朝刊に「輝く『日本ハーモニカ賞』地元で初リサイタル」と写真入りで大きく取り上げる。「市民かわら版」や「タウンニュース」などのタウン紙も同様にこれを大きく報じた。
 汗ばむほどの陽気の、梅雨晴れの日曜日の午後だった。開場時間を待って、労働センターの入口の前にはすでに長蛇の列ができていた。国際障害者年ということで、身障者たちも何人か招かれていた。
 会場のざわめきをよそに開演を告げる本ベルが鳴る。客席の灯りが次第に消えて緞帳がゆっくりと飛ぶと、伴奏のピアニストとともに重昭は舞台下手から静かに登場した。
 マイクの横に立つハーモニカ置き台には、1曲のためだけにずらりと10本ものハーモニカが並ぶ。ヴァイオリンのための、ハーモニカではたいへんな難曲、サラサーテの「チゴイネルワイゼン」が始まった。ハーモニカを持ち代え、持ち代えしてピアノ伴奏のテンポにしっかりと乗る。照明の光を時おり鋭く反射させて、その動きはまるで機械のような精確さだ。6分間を優に越える演奏を終えると、一瞬にして緊張の糸がほどけたように、会場中割れんばかりの拍手が渦巻いた。重昭はすでに大きな仕事を成し遂げたような安堵の表情で一礼して、暗転のなか舞台袖に引き揚げた。重昭と入れ違いにステージに立つナレーターの女性だけがスポットライトのなかにある。
 「あれは43年前の夏の夕暮れ、相模川の小石の上に腰をおろして、母から買ってもらったばかりのハーモニカの小箱をみつめていた……。ハーモニカよ、君はちいさな冷たい唇から温かいメロディを生み出す魔法使いだ。幼い頃の思い出を、はげしく揺さぶるタイムマシンだ……」
 ナレーションが終わると、暗い舞台のなかに浮き上がるように、いつの間にか椅子に座る重昭にスポットライトが当てられている。おもむろにハーモニカの独奏がはじまった。
 「四季の歌」、「灯台守」、「影を慕いて」、そして「城ヶ島の雨による幻想曲」と続けて4曲。やがてステージは明るくなり、重昭の短いおしゃべりを挟んで、今度はクロマチックハーモニカで「マラゲーニャ」が始まる。力のこもった演奏が終わって一礼すると客席から女性が近寄り、重昭の手に大きな花束が渡された。拍手のなか、満面の笑みを湛えた重昭が幾度となく頭を下げる。それを合図に緞帳も下ろされ、第1部が終演した。
 およそ5分の休憩をはさんで第2部の幕が開くと先ず、重昭が舞台中央に立ってあいさつをする。この一瞬を重昭は何年間夢見てきたことだろう。長い長い道のりだった。一言ひとこと言葉を選び来客に感謝の気持ちを伝える。万感胸に迫ってくる。重昭のあとには厚木市長の足立原茂徳や全日本ハーモニカ連盟会長の真野泰光、かつて新潟でお世話になった新潟県学校器楽連盟名誉会長の仲村洋太郎が心のこもった祝辞を述べる。
 スピーチが終わって暗転幕が上がると、この日のゲストのトップバッター、佐藤秀廊が「荒城の月変奏曲」の演奏を始めるのだった。曲間に佐藤は重昭との交流をユーモアに富んだ話し振りで語り、「汽車」を演奏する。ハーモニカを吹きながら片手を回して汽車を真似するパフォーマンスが大いに受けて、喝采を浴び、いよいよリサイタルは佳境に入るのだった。

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