2004.06.01(NO52)  ゲストに森本恵夫を迎えて

左から2人目が゙森本恵夫
  53歳にして初めて開いた重昭のリサイタルの最後を飾るのは「厚木ハーモニカトリオ」にゲストの森本恵夫を加えたカルテットの演奏だった。「セントルイス・ブルース」「枯葉」「フォスター名曲メドレー」「夜霧のブルース」とまずは「厚木ハーモニカトリオ」の演奏が続く。そしてそれが終わると、司会の斉藤寿孝によってゲストの森本恵夫が紹介される。
 森本は当時58歳、「ザ・ブルー・ハーモニキャッツ」のメンバーでもあり、クロマチックハーモニカの第一人者だった。
 彼の音楽的出発は戦後の進駐軍だった。キャンプの中にあるクラブで演奏活動を始め、そこで音楽修行をする。のちに森本自身が語った面白いエピソードを要約させてもらうと、こうだ。
 いまの有楽町の宝塚劇場は戦後、アメリカ軍に接収されてアーニーパイル劇場と呼ばれていた。アーニーパイルというのは沖縄戦で戦死した新聞記者の名からとったらしい。そこにはいろいろな米軍のオフィスが入っていて、芸能部というのもあった。横浜や横須賀、立川や座間などのキャンプで演奏する芸人たちの斡旋をしていたのだった。
 週末になるとアーニーパイル劇場の横にはトラックがずらりと並び、それに乗せられて慰問先に連れられて行く。クラブで演奏をしてここにまた戻ってくると終電で帰る、というのがお決まりだったようだ。
 森本はアーニーパイルのオーディションを受けて採用され、ハーモニカを吹いた。最初はアメリカ人を前に複音ハーモニカで何を吹いていいか分からず、「荒城の月」を朗々とやったがまったく受けない。それどころかブーイングがきて聞いてもらえもしなかった。それならクラシックをと「ハンガリア舞曲第5番」を吹く。これもだめだった。中国大陸に行った人も多いだろうと、今度は「シナの夜」をやるがこれもだめ、しまいにはもうここに来なくていいとも言われた。
 それ以後、彼はどんな曲なら受けるのだろうと、他の日本人バンドの演奏なども聴いて研究した。バンドがやっていたのはグレンミラーやベニー・グッドマンなどのジャズ、あるいはワルツやタンゴだった。それからはアメリカのヒット曲を集めた楽譜を手に入れて演奏し、少しずつキャンプでも受けるようになった。
 最初は複音のソロで演奏していたが、間がもたず行き詰まりを感じていた。ある時、戦前からミネビッチのバンドのようなスタイルで演奏していた「南部バンド」に出会い、それに森本が加わって「東京ハーモニカカルテット」を結成した。複音とホルンでメロディーをとり、「ビア樽ポルカ」やウエスタンなどを演奏し、クラブの仕事を続けた。当時、進駐軍に行くと一晩90円のギャラがもらえた。月給が60円くらいの時分だから慰問の仕事はこたえられなかった。
 森本がクロマチックを手にするのはラリー・アドラーやトミー・モーガンが来日して、彼らの演奏を耳にしてからだった。朝鮮戦争が終わり、進駐軍が引き上げると慰問の仕事もなくなりかけていた。ちょうどその頃、「現金(げんなま)に手を出すな」というギャング映画が大ヒット、ハーモニカで奏されたテーマ曲「グリスビーのブルース」が注目された。山本直純やいずみたくなどの作曲家がハーモニカの表現力に着目、これを積極的に取り入れて、映画やテレビ、コマーシャル音楽などに取り組
んだ。そうした仕事をこなすにはクロマチックをやるしかなく、森本は懸命に練習し、スタジオミュージシャンとして活躍するようになる。
 カルメン・マキが歌ってヒットした「時には母のない子のように」のハーモニカも森本の演奏だ。レコーディングはやがて1万曲を超えた。そして「ブルー・
ハーモニキャッツ」としての演奏活動も開始する。だが25年間にわたって続けたそうした活動も、重昭のリサイタルにゲスト出演する頃にはしぼみかけていた。
 リサイタルでは「厚木ハーモニカトリオ」との共演で、「コメディアンズ・ギャロップ」「ダーク・アイズ」「『アルルの女』からファランドール」などを演奏した。これを機に次第に4人で演奏することが増え、やがて「ファンタスティック・ハーモニカ・カルテット」としての活動を始動することになる。

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