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「ハーモニカ人生見事な和音 国際コンクールで7部門制覇 厚木の岩崎さんファミリー 来月記念演奏会も」 そんな見出しで、ハーモニカを吹く重昭や子どもたちの写真が新聞にとりあげられたのは、昭和57年も明けたばかりの1月8日のことだった。 「ハーモニカ人生 最高の新年――ハーモニカを吹き始めて44年になるという、厚木の生んだハーモニカ吹きが、教え子たちと共に、昨年行われた第1回国際ハーモニカテープコンテストで、八部門のうち7部門に優勝するという快挙を成し遂げた。相模川の川っぷち、母親の吹くハーモニカを聴いて育った少年が、国外にまでハーモニカの美しい音色を響かせるようになった。『こんなうれしい正月はありません』と最高のお年玉の感激をかみしめている」記事はそんなふうに続く。 ハーモニカの渡来85周年を記念して、全日本ハーモニカ連盟が初めて企画した「国際複音ハーモニカ・テープコンテスト」には日本のみならず、中国やマレーシア、シンガポールなどの国からも応募があり、その数はざっと165曲。佐藤秀廊を審査委員長として、作曲家でもある陶野重雄、音大講師の大場善一、ハーモニカ奏者の新井克輔、森本恵夫ら10人の審査員によって部門別の順位が決められた。 |
重昭は独奏伴奏付きシニア部門で「チゴイネルワイゼン」を吹いて応募し優勝。重昭の門下からは、独奏無伴奏ジュニア10歳〜15歳部門で変奏曲「海」を吹いた厚木第二小6年の山領洋が、同9歳以下で「ひなまつり」を吹いた妻田小4年の西村充が、独奏伴奏付きジュニア部門で「春の歌」を吹いた厚木小6年の川井健司がそれぞれ優勝した。 またアンサンブルでは、シニア部門で重昭、竹内暉、大矢博文、平井武に東京の粳間正三が加わった「厚木リード・アンサンブル」が「チャルダッシュ」を演奏して優勝、ジュニア部門でも山領洋ら4人に大矢博文の娘、厚木中2年のわかながピアノで加わり、ロシア民謡のメドレーを吹いて優勝した。 このとき詩人、中原中也の実弟、伊藤拾郎も無伴奏シニア部門に応募、「荒城の月」を吹いて優勝している。 審査の模様は昭和56年12月23日の読売新聞夕刊が7段も割いて大きく報じている。 その写真には、視聴室に審査員が詰めて、2台のスピーカーの前に座り、腕組みをしたり目を瞑ったりして、筆記用具を片手にテープに聞き入る姿が写されている。 応募曲にはカラオケやピアノをバックに入れたもの、なかにはエコーを効かせようと風呂場での録音らしきものもある。中国からの応募テープには中国語でしゃべりあう人の声や犬の泣き声まで入っていて、審査員からは思わず笑いがこぼれる。 規定では1曲は5分以内だが、1曲の平均が3分としても応募テープすべてを聴くと8時間以上もかかる。そこで全審査員が点をつけ終えたら打ち切って次の曲を、という具合に審査を進めたのだった。それでも延々6時間、午前10時半から始まって、昼食や小休止をはさんで採点が終わったのは午後6時だった。 「尻に豆ができたよ」「いやぁ、思考能力ゼロだ」 いささかグロッキー気味ながらも、審査員たちは互いに肩をもみ合い、ハーモニカ人気復活への期待と意気込みが勝って、ホッとした様子で笑顔を浮かべる。 新聞紙上で小沢昭一は「ボクのハーモニカは我流だから、とてもコンテストに出せる代物じゃないが、ハーモニカは好きだなあ。ぼくがハーモニカを覚えたのは小学一年の時。戦時中は勤労動員の時にハーモニカ漫談をやったり、戦後、芝居のどさ回り先で、私のハーモニカ伴奏で、お客さんに『鐘の鳴る丘』を合唱してもらったり。ハーモニカは人間の息づかいそのもので、人間のいとしさが込められている。かみさんに 『うるさい』って言われながら、今でも吹いていますよ。若い人もぜひやってごらんなさい」と好意的なコメントを語った。 |
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