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鮮やかなレモンイエローの紙に黒文字が引き立つ。ハーモニカの勉強に通う岡田由美子宅のエレクトーンの上に置かれたチラシ。それを目にして、小学4年生の岩間朱美は思わず「きれい」と心の中で叫んだ。デザインが斬新だった。手に取るとそれはハーモニカ渡来85周年を記念したテープコンテストの募集要項だった。 「応募してみよう」 岩間にはあまり深い考えもないまま、ただチラシ=写真=の美しさに魅了されて、そう思った。 ちょうど練習している曲に重昭の編曲した「鯉のぼり」があった。岩間は早速指導者の岡田に、応募の意思を伝えた。それならと、岡田は岩間を連れて本郷台から2時間近くかけて重昭の家まで練習と録音に何度か通った。重昭の家には小学生が数人、ハーモニカの指導を受けに来ていた。そこには小学2年生の西村充もいて、「ひなまつり」の演奏でコンテストに応募するべく練習していた。 重昭は子どもたちにもおとなに接するのと同様、真剣に向き合って指導した。ついつい熱が入って話題もときどき脱線する。岩間にはそれが刺激的で楽しく新鮮だった。 |
鮮やかなレモンイエローの紙に黒文字が引き立つ。ハーモニカの勉強に通う岡田由美子宅のエレクトーンの上に置かれたチラシ。それを目にして、小学4年生の岩間朱美は思わず「きれい」と心の中で叫んだ。デザインが斬新だった。手に取るとそれはハーモニカ渡来85周年を記念したテープコンテストの募集要項だった。 「応募してみよう」 岩間にはあまり深い考えもないまま、ただチラシ=写真=の美しさに魅了されて、そう思った。 ちょうど練習している曲に重昭の編曲した「鯉のぼり」があった。岩間は早速指導者の岡田に、応募の意思を伝えた。それならと、岡田は岩間を連れて本郷台から2時間近くかけて重昭の家まで練習と録音に何度か通った。重昭の家には小学生が数人、ハーモニカの指導を受けに来ていた。そこには小学2年生の西村充もいて、「ひなまつり」の演奏でコンテストに応募するべく練習していた。 重昭は子どもたちにもおとなに接するのと同様、真剣に向き合って指導した。ついつい熱が入って話題もときどき脱線する。岩間にはそれが刺激的で楽しく新鮮だった。 岩間のレッスンには岡田が付き添っているとはいえ、小学生にしては遅い8時を過ぎることもあった。お腹を空かせて本厚木駅前の吉野家やマクドナルドに飛び込んだのも生まれて初めての体験だった。そんな日は家に帰り着くのは夜中の12時を回った。 ようやくカセットに吹き込み、投函したあとは結果が出るまで気が気でなかった。家にかかってくる電話が結果を知らせるものと思われて、すすんで受話器を取った。岩間の気はそぞろという体だった。審査結果が郵送されてきたのは昭和56年の暮れも押し詰まってだった。2位だった。 それには有楽町の読売ホールを会場に開かれるハーモニカ音楽祭への出演要請も記されていた。岩間は嬉しかったが、それ以上に大きなステージに立つという緊張感を日増しに募らせた。 昭和57年2月28日、日曜日、国電有楽町駅前のそごうデパートの7階、読売ホールを会場に「日本のハーモニカ」と題された音楽祭の日がやってきた。12時30分が開演時間だった。 その日、1位入賞を果たした西村充は山領洋や川井健司ら「厚木ジュニア・アンサンブル」のメンバー、重昭ら「厚木リード・アンサンブル」のメンバーたちと小田急のロマンスカーで東京に向かった。車内では重昭が調律工具を広げて、西村たちのハーモニカの調律をした。トレモロをきっちりと調整したハーモニカで、西村は人目をはばかることなく「ひなまつり」を吹いた。これまでの練習の成果を確認するように何度も吹いた。 読売ホールは12時の開場とともに多くのお客が入場し、客席はひとつの空席もなく埋まっていた。第一部は「国際ハーモニカ・テープコンテスト,81」の入賞者表彰式が行われ、審査委員長の佐藤秀廊から講評のあと、部門別の入賞者に賞状や盾が手渡された。 第二部はコンサートで、斎藤安弘と片山明子の司会で進められた。「川口ハーモニカ楽団」と「NHCサロンポップス」の招待演奏に始まり、無伴奏独奏ジュニア部門の入賞者から演奏した。トップバッターは3位に入賞した岩間の同級生でもある井出瑞穂が「雪」を演奏する。次に岩間が「鯉のぼり」を、そして次に西村が「ひなまつり」を演奏した。 岩間は緊張していた。西村が吹くとき、ステージの後ろに立って聴くあいだも緊張していた。年少の部が終わると、司会者は3人を舞台中央に招いてあらためて紹介をする。 「女の子の岩間朱美さんが『鯉のぼり』で、男の子の西村充君が『ひなまつり』、ちょっと逆みたいですね」ユーモラスな司会の一言に、会場はどっと沸き緊張の糸がほぐれた。岩間も和んだ会場の雰囲気に、ようやく張り詰めたものから解放されたようににっこりと笑顔をつくった。 |
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