2004.09.15(NO58)   「厚木リトルフラワーズ」の結成

厚木リトルフラワーズ
 「やってみましょうハーモニカで楽しく」、そんなハーモニカの入門者向けの番組が昭和59年11月1日から全4回NHK教育テレビで放映された。
 ”障害者にも音楽を楽しんでもらおう“との思いで、10年以上もハーモニカで福祉活動を続ける赤星建彦がそのメイン講師を務め、そこに斎藤寿孝や森本恵夫、それに重昭もゲスト出演したのだった。
 重昭は「越後獅子」を吹いた。収録中、真正面の大きな時計の秒針がぐるぐると回るのが気になった。重昭の出番は当初3分間の予定だったが、ディレクターの判断で2分になり、最後には1分50秒に詰められた。
 そのとき合点がいかなかった重昭だったが、後日自分が出た放送をみてすぐさま納得した。重昭はハーモニカを咥えてまっすぐに視聴者を見据えるように怖いくらいの顔をしていた。
 「ははーん、こんなキツイ顔じゃまずいわけだ」
 いい勉強だった。それ以後、重昭がステージでハーモニカを吹く時にはなるべく柔和な顔を心がけた。
 この頃、重昭は佐秀会の関東支部連合会会長に加えて本部長という要職を任ぜられていた。「佐秀会ニュース」の昭和59年10月20日号に重昭は「佐秀会の歩むべき道」と題した一文を寄せている。
 「昨年関東支部連合会会長を仰せ付けられ、この度また本部長を命ぜられました、大変名誉な事ではありますが、それだけに責任の重圧を感じない訳にはいきません(中略)本会は他の諸団体とは別の路線を進むことになります。ただハーモニカが好きな人だけ集まっているという会ではなく、将来の日本のハーモニカ音楽の基礎を固め、後進を育成し、日本的奏法の伝統を後世に伝え、これを更に発展させるべく研究を深めてゆく…、これが本会の歩むべき道であると確信しています」
 重昭は後進の育成に人一倍力を入れる必要性を説いた。昭和59年当時、重昭は川井健司や西村充などのほかに、小学校6年生同士のカルテット「すみれジュニア」の井出瑞穂、中川友紀子、横井絵理子、岩間朱美らや、小学校3年生同士のトリオ「厚木リトルフラワーズ」(前年結成)を結成した浜田令子、熊沢さつき、竹内直子ら20人前後の子どもたちを指導していた。
 浜田令子がハーモニカと出会ったのは5歳の時だった。令子の母、良枝は、親戚のおじから「ハーモニカをやるなら岩崎重昭という先生についたらいいよ」と教えられていた。浜田家は当時、厚木市役所の近くで、重昭の家まで歩いて数分のところだった。母、良枝が令子と妹の香子を連れて初めて重昭の家を訪れる。
 「この子にハーモニカを習わせたいと思ってます」
 重昭はやさしい笑顔で頷いて3人を招き入れた。令子は日曜ごとに重昭のもとに通い始める。2年後には良枝も香子もハーモニカを学ぶことにした。やがて「浜田ファミリー」として令子が複音を、香子がコードハーモニカを、母の良枝がバスハーモニカを吹いた。熊沢さつきの場合も両親が重昭のハーモニカ講座を受講し、娘を習わせたいということで重昭のもとに通わせた。やがて「熊沢ファミリー」を結成、ラジオにも出演する。
 竹内直子の場合も、すでに父の暉は「厚木ハーモニカカルテット」で重昭たちと演奏活動を共にしていたし、母は寒川の公民館で開講した重昭のハーモニカ教室に通っていた。
 「直子ちゃんと同い年の子がうちに来ているよ」という重昭の言葉に、母は「直子も厚木の先生の教室に通わせてください」とお願いした。同級生同士、3人はすぐに仲良くなった。昭和59年には岩間朱美の妹で、やはり同い年の小学校3年生の岩間史恵が「厚木
リトルフラワーズ」のメンバーに加わったのだった。

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