2004.10.01(NO59)   坂本九との出会いと別れ

坂本 九
「ぼくがデビューしたての頃、岸田今日子さんに、九ちゃんはハーモニカちゃんだねって言われたことがあります。歯並びがこう、ハーモニカみたいでしょ」
 明るい坂本九の声がスタジオの中を和やかにする。スタジオのテーブルを囲んで「すみれジュニア」の岩間朱美や井出瑞穂、中川友紀子、横井絵里子ら中学1年生カルテットの面々は、一様におかしみをこらえるようにうつむき加減にほほ笑む。
 この日、重昭に率いられて、岩間たちは「熊沢ファミリートリオ」とともにNHKFMの横浜局開局15周年を記念する生放送の番組に出演したのだった。
 昭和60年6月22日、横浜市中区本町の横浜放送局のスタジオに午前から入る。まずこの日に放送する演奏だけを先に録音した。
 「すみれジュニア」は「谷間の灯」と「浪路はるかに」。「熊沢ファミリートリオ」は「おお牧場は緑」と「からすのあかちゃん」、それに「船頭さん」だ。
 岩間たち「すみれジュニア」はいつもの練習のように吹けた。だが「熊沢ファミリートリオ」は小学4年生のさつきは別にして、両親の勇司と雅子はマイクを前に平静にはなれなかった。ことに雅子はどこをどう吹いているのかさえわからなくなるほど、頭のなかは真っ白になった。それでも何とかひととおり録音は終えることができた。
 本番は録音された演奏を交えて、九ちゃんと榊原郁恵のおしゃべりで進行した。榊原
はこのとき20代の半ば、芸能界にデビューして8年目だった。奇しくも自分の出身校、厚木中学校の後輩にあたる中川や横井たちとこうした番組で出会うとは思ってもいなかった。それ故、「えっ、厚木中学ですか」と思わず声の高ぶりをおさえられなかった。
「ハーモニカはどれくらいやってるの?」
 九ちゃんの問いかけに岩間は、「6年くらい」と答える。
「それだけやってると、知ってる曲なら何でも吹けるでしょう」
「いや、そんなに…」岩間は小声になって控えめな返答で語尾をにごすのだった。
 次に「熊沢ファミリートリオ」の番となって、先刻録音した「おお牧場は緑」を聴いたあと、九ちゃんはハーモニカを始めた動機を尋ねる。雅子は「主人が定年を迎えたら何か趣味のひとつくらいあってもいいかなと…」とてきぱき答えた。
「ずいぶん先のことを考えて始められたんですね」と九ちゃんは目を丸くして、少年のようにアッハッハと笑う。そして「優しいお母さんだな」とつぶやくようにつけ加えた。
「家族が夕飯終わったあとにハーモニカ吹くなんて“絵”になりますね。いい“絵”ですよ」しみじみそう語ると、続けてこうも言う。
「ぼくはチェロをやりたいと思ってるんです。チェロを習って家族で音楽をやるのが夢なんです。だけどいまぼくには時間がないな。皆さんは一家でやってらっしゃる。何よりですね」
 心からうらやましそうなまなざしを雅子にぶつけてきた。雅子は頬をゆるめて頷きながら、九ちゃんの眼をみつめた。雅子には、九ちゃんの瞳の奥に、少し悲しい光が宿っているように思えた。
 この放送が終わって2ヶ月も経たない8月12日のことだった。夕刻、羽田を発った日本航空123便は、大阪へ向かう途上、離陸後10分ほどでトラブルに見舞われた。そして30分以上もダッチロールを繰り返したあと長野県の御巣鷹山に衝突、炎上した。乗客乗員524名の中には九ちゃんの名もあった。坂本九、43年の生涯を閉じるあまりにも悲しい飛行機事故だった。  
 そのニュースを知って雅子は泣いた。ついこの間のにこやかな九ちゃんの笑顔と、眼の奥の悲しげな光を思い起こした。
「九ちゃんの夢はまったく潰えたのだ」そう思うと余計、大粒の涙が頬を伝うのだった。 

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