2004.12.01(NO62)  コンテスト3連覇
87年のFIH-JAPANハーモニカコンテストで優勝したリトルフラワーズ  重昭のもとでハーモニカを学ぶ親たちの影響でハーモニカに出会い、やがて重昭のもとに通い始めた竹内直子と熊沢さつき、浜田令子たち。三人はそれぞれ学校は違ったけれど、仲のいい小学2年生同士だった。昭和59年に「リトルフラワーズ」を結成、1年後の3年生のときには岩間朱美の妹の小学3年の史恵もメンバーに加わってきた。
 重昭から与えられた練習曲は、まだ可愛さたっぷりの小学生にしては少し不釣合いな「花かげ」だった。聞いたことも歌ったこともない大村主計の詞に豊田義一が曲をつけた昭和初期の歌だ。竹内は最初、なんて暗い曲なんだろうと思った。
 4人ともいつも元気がよくて行儀もいい。月2回、日曜日の重昭宅に通うのも楽しく、練習にも一生懸命取り組んだ。レッスンの待ち時間には教室ほどもある重昭宅の3階の部屋にあがって、ひとしきりにぎやかに練習をする。合間には学校であったことや友達のことなどおしゃべりもはずんだ。少女たちの目は輝いていきいきとしていた。
 学業もみな優秀だった。
 次に取り組んだ曲は、先輩たち「すみれジュニア」が得意とするビリー・ヴォーン楽団の十八番「浪路はるかに」だった。岩間史恵がオクターブ・ハーモニカを、浜田令子がクロマチックを、熊沢さつきがトンボ楽器製の小ぶりのコードハーモニカを、竹内直子がやはりトンボのバスハーモニカを吹いた。
 彼女たちが4年生になると、重昭は「リトルフラワーズ」のために「ハンガリア舞曲第5番」を編曲して渡した。
 「ようし、今度はブラームスだ」
 ようやく手ごたえのある曲を与えられた少女たちは嬉々として練習に取り組んだ。飲み込みも早く、どんな早いパッセージも大人には真似できないくらい難なくこなした。練習場所にたまに居合わせた大矢博文は、「これはうまいや」と感心して満面笑みを浮かべた。
 重昭の計らいで佐秀会の定期演奏会や各地のコンサートなどにもたびたび出演した。そのたびに大人の奏者たちは目を丸くして演奏に聴き入る。音楽大学の講師を務める大場善一も「びっくりだ。厚木の子どもたちはすごい」と絶賛するほどだった。
 昭和61年、彼女たちが5年生の時に「FIHハーモニカコンテスト」に出場、いきなり優勝した。演奏曲は「ハンガリア舞曲第5番」だった。重昭にとっても、嬉しい結果だった。この年にはまた重昭の編曲集もドレミ音楽出版から刊行されて二重の快挙を祝うこととなった。
 翌年「リトルフラワーズ」はコンテストに再挑戦、「トルコ行進曲」を吹いて優勝を果たすのだった。このとき同じステージに立った「アザレアクインテット」は「クシコスポスト」で2位。竹内直子は複音ソロ部門でも出場し、「ロングロングアゴー変奏曲」で優勝、岩間史恵はやはり複音ソロ部門で「ハンガリア舞曲6番」を吹いて3位、「すみれジュニア」の横井絵理子も「ロシア民謡メドレー」で同じく3位入賞を果たした。また岩間朱美はクロマチック部門で「トルコマーチ」を吹いて優勝。3部門で優勝を独占というほどに厚木の子どもたちの活躍が目覚しかった。続く昭和63
年にも「リトルフラワーズ」は「FIHハーモニカコンテスト」にエントリー、「剣の舞」を演奏して3年連続優勝を果たすのだった。
 「リトルフラワーズ」が出場するかぎり他の出場者は優勝できない。とうてい太刀打ちできない、と予選のテープ応募も少なくなりそうな気配もあった。
 「もう君たちはコンテストは卒業だ」
 重昭はそう告げて、コンテストへの出場は以後、見合わせることにした。

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