2004.12.15(NO63)  厚木ハーモニカ黄金時代

アザレアクィンテット
 「リトルフラワーズ」の全日本ハーモニカコンテストでの3年連続優勝は竹内直子や浜田令子、熊沢さつきらの子どもたちの力を日本中に知らしめるとともに、“厚木に岩崎あり”と、その師、岩崎重昭の存在を一層強烈にアピールする結果ともなった。
 昭和63年を最後に、中学一年生の彼女たちは全日本ハーモニカコンテストへの出場を見合わせることになったが、昭和64年には大矢博文の姪でクロマチックを吹く中学一年生の神尾佳世子、東京から複音を吹く高校二年生の村尾光恵とバスを吹く中学三年生の新井隆司も加わって、ドイツで開催される世界大会のコンテストに日本のジュニア代表としてアンサンブル部門でエントリーすることになった。
 にわか仕立てではあったが、グループの名前は日本らしいのがいいだろうという重昭の発案で、「アンサンブルさくら」と名づけられ、「剣の舞」と「トルコ行進曲」を演奏、大きな喝采を浴びて見事優勝した。ちなみにこの年、神尾、村尾、新井の3人はトリオ部門にも「トリオ新鮮組」というグループでエントリーして「パーフィディア」「小犬のワルツ」で第2位、シニアアンサンブル部門では「厚木ハーモニカトリオ」に森本恵夫、斎藤寿孝が加わった「ファンタスティック・ハーモニカアンサンブル」が「ハンガリー狂詩曲第2番」「バンブルブギー」で第3位、ソロのメロディック部門でも浜田令子が「バルセンチーノ」で第3位、ソロ・クロマチック部門で、ドイツでクロマチックを学ぶ京都出身の和谷泰扶が優勝を果たし日本勢が気を吐いた。
 その後、ポスト・リトルフラワーズとして如実に力をつけつつあった「アザレア・クィンテット」の活躍がめざましく、平成元年の全日本ハーモニカコンテストで「ウィリアムテル序曲」を演奏して優勝、さらに平成3年にはアメリカで開催された世界大会にも出場することになった。柳川優子や井上初美、岩部道央子、小林希代江ら高校生に急遽、中学一年生の石井智がバスハーモニカで加わっての出場で、小田彩は学業の関係で出場できなかった。
 世界大会はデトロイトのホテルが会場だった。コンテスト会場は優に100人を超える大柄で金髪の観客たちで埋めつくされている。いつもはアコーディオンを担当する小林希代江だったが、コンテストの規定でアコーディオンは認められておらず、この日はハーモニカに持ち替えての出場だった。演奏曲は全日本で優勝したときの「ウィリアムテル序曲」そして「チャルダッシュ」。
 コンテストでは審査に不公平や差別をなくすという理由で演奏後の拍手は禁じられていた。この日司会を務めたのはヤンセンという中年の男性司会者だったが、彼もそのことはくどく客席に求めていたし、守られてもいた。ところが「アザレア・クィンテット」の演奏が終わるやいなや、その完璧な演奏に司会者自ら禁を破って思わず拍手をしてしまったのだった。観客も総立ちとなって口々に「ワンダフル」を叫び拍手が巻き起こる。すぐに正気を取り戻したかのようにヤンセンは客席に向かって英語で「拍手をやめてください!」と呼びかける。そんな光景を柳川優子や井上初美たちはステージ上で感激の面持ちで見つめていた。
 その後、小田彩が抜けてバスを小林が、コードを柳川が、クロマチックを井上が、複音を岩部が担当して新生「アザレア・カルテット」として始動し、2年おきにドイツ、横浜で開催された世界大会でも連続優勝を果たすのだった。
 重昭の蒔いた種は大きく育ち、彼女たちの他にも、横浜の青葉台で始まったハーモニカサークルからも小学一年生の時から重昭の指導を受けた大内友哉、同じく同サークルでその後重昭の指導を受ける水野隆元や有野剛らで結成した「トリプル・ロックス」も世界の檜舞台で活躍することになる。厚木のハーモニカ黄金時代の幕開けはそうした若いプレイヤーたちの登場でいよいよ確かなものとなるのだった。(終わり)
■長い間のご愛読ありがとうございました。近々これまでの稿に大幅な加筆、訂正を加えて来年中には一冊にまとめる予定です。ご期待ください。

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