連載「今昔あつぎの花街

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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

NO10(2001.05.15) 厚木芸妓株式会社の解散と三業組合・芸妓組合の分裂

 明治37年(1904)の「横浜貿易新聞」には、小田原区裁判所の左記の登記公告が掲載されている。
  厚木芸妓株式会社登記事項中、取締役神奈川県愛甲郡厚木町二千五百八十六番地
  仁藤佐兵衛死亡ニ付変更ス
  同会社ハ明治三十七年五月二十日、臨時総会ノ決議ニ因リ解散ス
  右明治三十七年五月二十六日、株式会社登記簿第二号へ登記ス
 明治37年5月20日、解散を決議した厚木芸妓株式会社は、明治34年6月の創業で、明治36年刊『横浜繁昌記』にも「芸妓営業株式会社と云ふ珍しいものがある」と紹介された会社であった。
 厚木芸妓株式会社は、明治32年(1899)9月、「芸妓営業」を目的とし、資本金3千円をもって創立された厚木芸妓営業合資会社の後身であると見てよいであろう(『神奈川県統計書』)。
 合資会社から株式会社への移行は、この頃に「芸妓、芸妓置屋、見番(芸妓の取次や玉代の精算をするところ)、料理屋、旅館などを包括する厚木花柳界の組織化と充実が急速に進行しつつあったことを推測させる。
 しかし、客が芸者を呼び、芸者が客を呼ぶ花柳界では、芸者の出入りが各料理屋や旅館の営業収益に直接関係することから、しばしばいざこざが発生し、厚木花柳界組織は離合集散を繰り返す歴史をきざむことになるのである。
 では、厚木芸妓株式会社解散決議後の、厚木花柳界の複雑な動きを「横浜貿易新報」の記事から追ってみよう。
  厚木芸妓株式会社
 明治39年(1906)11月に清算が完了した。はじめに紹介した登記公告にある取締役の仁藤佐兵衛は、天王町(現厚木町)厚木神社反対側の矢倉沢往還沿にあった旅館古久屋の主人である。
  三業組合
 愛甲郡内(厚木市南部の相川地区を除いた厚木市全域と、愛川町・清川村を合わせた地域)の宿屋、料理屋、芸妓屋の三業で組織されていた。
 この三業組合の発足年月日は確認できていないが、明治42年(1909)2月、内部抗争が原因で解散した。解散にともなって愛甲郡厚木町の料理店営業者は、仲町(現厚木市厚木町)の旅館高島亭で総集会を開き、独自の組合規則を定めて役員選挙を行った。
  厚木芸妓屋合名事務所
 明治42年(1909)2月の三業組合解散にともなって組織されたと思われる。同年9月の芸妓屋合名事務所の芸者は13人となっており、見番は「紺屋亀井林太郎所有地」左側(現厚木市厚木町9―1付近)にあった。
 明治44年(1911)1月の広告によれば、役員と芸妓は左記の通りであった。
 正取締大沢彦造、副取締平本總(綱の誤植)五郎、収入役岩崎初太郎、
 大沢屋内芸妓 一二三、喜代次、梅香
 高島亭内芸妓 とんぼ、玉子
 若松屋内芸妓 松次、小龍、かるた
 勢勝亭内芸妓 春子
 〆の家内芸妓 〆治、小清、一平
 事務所内芸妓 八重子、綱次
 右の「恭賀新年」広告を出してからわずか半月後、明治44年1月14日には、若松屋の松次が無断外泊したことに端を発したごたごたが生じ、厚木芸妓屋合名事務所の組織は、睦組芸妓組合事務所派・旧芸妓屋合名事務所派・中立の〆の家という三派分裂の争いとなって姿を消した。
  睦組芸妓組合事務所派
 厚木芸妓屋合名事務所を脱した若松屋、勢勝亭に吾妻屋が加わり、事務所を相模橋(現あゆみ橋)手前に置いた。明治44年6月には若松屋で芸妓義太夫大会を開催、かるた、一平、春子、小龍、千代子、久子が出演した。
  旧芸妓屋合名事務所派
 明治44年1月、大沢屋、高島亭、田中屋が睦組芸妓組合事務所派と対立して分裂した。
  中立の〆の家
 前述の両派分列をうけて、〆の家はいずれにも属さず、抱え芸者を見番から自宅へ引き取って営業をはじめた。

大正12年まで見番があった場所の発掘調査。関東大震災後、飯田屋の館が建てられた(『東町二番』)

  旧芸妓屋合名事務所派
 明治44年1月、大沢屋、高島亭、田中屋が睦組芸妓組合事務所派と対立して分裂した。
  中立の〆の家
 前述の両派分列をうけて、〆の家はいずれにも属さず、抱え芸者を見番から自宅へ引き取って営業をはじめた。  
  厚木料理屋芸妓屋組合
 明治45年(1912)10月、宝来亭における芸妓屋、料理屋組合の総集会の結果、1年9か月にわたった争いに終止符がうたれ、3派合同が決定した。新たに「厚木料理屋芸妓屋組合規約」を締結し、役員に溝呂木助三郎、仁藤佐兵衛、清水萬次郎、平本綱五郎、水島村次郎ほかを選出、同年12月1日、統一県番を「各料理屋の中央を選び、呉服店飯田屋裏手の建物」(現東町スポーツセンターの位置)に移転した。   
 そしてこの見番が、大正12年(1923)9月1日、関東大震災によって焼失するまで営業を続けることになるのである。

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