連載「今昔あつぎの花街」
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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員
これについて『国史大辞典』は、「明治6年(1873)制定の芸妓規則により、鑑札を受ければ割合簡単に芸者になれるようになった。その影響か、全国各地に芸者のいる町、〈花柳界〉が出現した」と述べている。 『神奈川県史料』によれば、明治7年(1874)三月改正の「芸者渡世規則」によって、「芸者渡世ノモノハ」、「鑑札授与候節、鑑札料金一円可相納、営業中一人ニ付賦金一ヶ月三円ツゝ、其月廿日限、月々相納可申事」とされていたが、同年6月には営業中の賦金が「芸妓金三円、酌人金二円」に改正されている。したがって、明治9年(1876)、厚木町(市制施行以前の旧愛甲郡厚木町)にいた8人の「絃妓(芸者)」たちも、当然ながら鑑札を所持していたものと見てよいであろう。
芸妓置屋営業免許鑑札 長方形の白い厚紙製で、表には「芸妓屋営業免許証」とある資料である。「芸妓屋」は芸者屋、芸妓置屋、あるいは単に置屋ともいわれ、芸者をかかえておき、料理屋、旅館等の注文に応じて芸者をさし向けることを職業とする家のことである。 大正11年(1922)のこの資料は、横6.0センチ、縦9.6センチの大きさがあり、裏面には厚木警察署の公印が押されている。免許を受けたのは明治19年(1886)、海老名村(現海老名市)に生まれた男性であり、住所は「愛甲郡厚木町二五一六番地」(現厚木市東町)となっている。 湯屋営業の鑑札 明治41年(1908)7月3日の年月日がある資料で、表には「湯屋営業免許之証」と記されている。横6.1センチ、縦10.0センチの大きさをもつ厚紙製で、裏面には「神奈川県厚木警察署」とあって公印が押されている。 営業人は三橋源司、場所は「愛甲郡厚木町千八百四十五番地」(現厚木市寿町1丁目4―2附近)であり、昭和50年頃まで同所で営業していた竹の湯は、この湯屋を引継いだものであろう。竹の湯を営業していた川口さんによれば、昭和3年(1928)、川口房太郎が二見芳太郎から買取って始めたものであったという。 ここに湯屋ができたのは、明治後期頃から付近の田んぼが埋立てられ、次第に旅館や料理屋、芸妓置屋、寄席などができ、やがて厚木花柳界の中心として繁栄することと無縁ではなかろう。 芸妓置屋では自宅に風呂のある家もあったが、かかえの芸者は風呂屋に行くのが通例であった。第2次大戦以前、竹の湯の営業時間はお昼の12時頃から夜の12時頃までで、お湯がわくのを待ちかねるように芸者衆が次々と入りに来たという。 |
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