厚木の商人の妻として嫁いできた筆者の祖母が、明治末期頃、人力車に乗って名古木(秦野市)の実家へ帰った時、近くに住むおばあさんから、自分が昔唄った子守唄を聞かされた。その唄は、厚木のまちで 過ぎたるものは たかべ みぞろき 茶屋おんな というものであった。
そのおばあさんは、厚木に嫁した筆者の祖母に、子どもの頃を想い出して「たかべ、みぞろき」「茶屋おんな」と唄った厚木の町の様子を聞きたかったのであろう。
「たかべ」は高部源兵衛家、「みぞろき」は溝呂木孫右衛門家、共に江戸時代の厚木の商人を代表する存在で、渡辺崋山が厚木を訪れた時に記した『游相日記』には、両家をさして「皆呉服を素業とす、これ万を以て算る富人也」として、その豪商ぶりが紹介されている。
両家とも明治末期には閉店するが、明治10年(1877)の「厚木町地目調査図ノ内」(『厚木郷土史』)を見ると、溝呂木家は3反4畝28歩(1,048坪)、高部家は1反9畝9歩(579坪)の屋敷地を構えており、江戸時代から明治初期頃の豪家ぶりを推測できる。
はじめに紹介した唄は、厚木のまちで「過ぎる」存在であった三つをうたい込んだものであり、江戸時代末期の厚木では「高部」「溝呂木」の豪商と肩を並べた「茶屋おんな」の存在が唄にうたわれるほど名を馳せていたことがわかる。
江戸時代末期の厚木村の町並(「相模国厚木六勝図」部分) <飯田孝蔵>
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「茶屋女」の「茶屋」は客に飲食、遊興をさせる店であり、「茶屋女」はその料理屋などに奉公して酒の酌または給仕などをする女のことである。
『日本国語大辞典』を広げると「茶屋あそび(料亭、遊郭などで酒色の遊興をすること)」「茶屋がよい(料亭、遊郭などにしげしげと通って遊興すること)「茶屋ぐるい(茶屋に通いつめて酒色の遊興に夢中になること)」「茶屋酒(茶屋で飲む酒)」「茶屋ぞめき(料亭、遊郭などで浮かれさわぐこと。またそこをひやかして歩くこと)」などの言葉があり、厚木のまちが遊興の場としても繁盛していたことがうかがい知れる。 |
明治初年頃の旅籠屋には、上町(現東町)の角勘、白子屋、高砂屋、釜鳴屋、熊沢屋、紀の国屋、海老屋、阿波屋、大和屋、天王町(現東町と厚木町の一部)の紀の国屋、松屋、古久屋、中村屋、万年屋などがあり(「厚木郷土史」)、これらの中には料理茶屋を兼ねる店も多くあったものと思われる。熊沢屋は、慶応3年(1867)12月、下荻野村(厚木市)の荻野山中藩陣屋を襲撃する浪士たちが立寄った店であり(『荻野山中藩』)、嘉永6年(1853)には、古久屋、ゑび屋、万年屋、釜鳴屋が御鷹御用宿となっている(『厚木天王町郷土史』)。
吉川英治の『江戸三国史』を読むと、厚木の商人となっていた盗賊一味・秦野屋九兵衛が、店を訪れた仲間と密会する相模川河畔の茶屋井筒屋が登場するが、江戸時代の厚木にはこのような料理茶屋が実際に存在したのであろう。
厚木市金田の建徳寺には、「料理人連中」が造立した「あのや太吉(天保2年<1831>没)」、「喜兵衛(天保7年<1838>没)」の墓石があり、喜兵衛は厚木の料理屋川越屋三治郎方の「番子(料理人)」であったことが同寺の記録から確認できる(『厚木の民俗1』)。川越屋三治(次)郎は天保14年(1843)の没。厚木の町で料理屋を兼ねた旅館の営業者であったと見られている。
また、建徳寺には、嘉永5年(1852)に没した「芸州(広島県)の人、番子ニ而死」などの記録もあり、前述した「料理人連中」の銘文と合わせ考えると、数多くの料理人たちを必要とした厚木宿の旅籠屋や茶屋料亭のさんざめくにぎわいが目にうかんでくる。
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