連載「今昔あつぎの花街」
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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)
昭和2年(1927)に出版された『川柳大山みやげ』には、次の江戸時代の川柳が紹介されている。
川柳の作者はたぶん、このような遊女の夏姿から「厚着」に「厚木」の地名をかけて「棉」の入った遊女の着物の裾がちらつくほどに遊興の地として繁昌していた厚木宿を、六根清浄で大山参りをした帰路の、息ぬきの場所としてよみ込んだのではないだろうか。 江戸時代の厚木に遊郭はなかったけれど、周辺農村の子守唄に唄われるほど名をはせた「茶屋女」が旅人たちの接待にあたり、明治9年(1878)には30軒の「旅店」と8人の「絃妓(芸妓のこと)」がいたことから類推すれば、江戸時代末期には芸者がひく三味線の音色が聞こえてくる厚木の花まちの灯が、すでにともっていたことを色濃くうかがわせている。 |
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