連載「今昔あつぎの花街

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飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)

NO6(2001.03.15)   才戸川口屋の投げさかずき

明治から大正時代頃、厚木地方の宴席などで唄われた甚句には次のような文句がある。
  才戸川口屋の 
  投げさかずきも 
  親の意見じゃやめられぬ
 「親の意見じゃ」のところは「ぬしの意見じゃ」とも唄われていた。
 甚句とは、二上り調の三味線の伴奏で唄われる「七・七・七・五」の語句を基調とする騒ぎ唄である。
 才戸は厚木市三田・棚沢にまたがる中津川右岸沿いの地名であり、江戸時代から昭和初期までは大山街道にかかる才戸渡船場があった。
 甚句にある「才戸川口屋」は、この才戸渡船場近くの大山街道沿いにあった料亭・旅館である。
 『新編相模国風土記稿』によれば、才戸渡船場のある中津川は、「十月より二月迄は土橋を架す、長十五間」とあるように、冬の渇水期には土橋を架して人々が往来していたことが知れる。
 また、才戸渡船場を通る大山街道は、「大住郡曽屋(秦野市)、伊勢原(伊勢原市)辺ヨリ武州八王子往還」(『皇国地誌』)であり、中仙道熊谷宿(埼玉県熊谷市)を起点とする街道で、江戸時代から明治中期頃までは大山参りの旅人で賑わった。
 昭和初期の才戸渡船場付近の状況を記した小島すみ氏の「随想『思い出地図』の周辺」を見ると、川口屋は旅館と料亭を兼ね、日用雑貨や煙草を商う店であり、「正月や川入の草競馬には、衿を白く塗った姐さん連中の声も聴かれた」といい、川口屋の近くには「ぜんや」という人力引きや「みよしや」という茶屋の建物も残っていたことが紹介されている。  

中津川と川口屋があった附近(右側)

 また、厚木地方で唄われた悪口唄、はやし唄には左記のようなものがある(『あつぎの古謡』)。

 畑にこうぶし田にひるも
 才戸に親方なけりゃよい 
 畑にじしばり田にひるも
 才戸にお花が(お絹が)なけりゃよい


 「こうぶし」はむしっても塊根が土中に残ってしまい、「じしばり」は茎が地上を這って延びる雑草であり、容易には取り去ることができなかった。また、「ひるも」はひるむしろの俗称で、根茎が地中に長くのびて浮上し、葉は長楕円形の植物のことであり、やはり除去するのは大変だった。
 つまり、才戸の「親分」と「お花・お絹(茶屋や料亭でお酌をする女性の総称であろう)」は、畑のこうぶしやじしばり、また田のひるもと同じように、「なけりゃよい」ほどはやった存在だったのである。
 厚木市林の柏木喜重郎氏(明治44年生)によれば、才戸には川口屋、みよし屋のほかにも山際屋、おおかね(大金子・金子屋)などの茶屋もあり、これらの茶屋でははたらく茶屋女を縁あって妻にむかえる人もあったという。
 また、明治16年(1882)の『小宮保次郎日誌』には、「総理板垣君帰朝ニ付(中略)三田大金子ニ集会ヲ催スニ決シ」(6月30日)とか、「総理板垣君帰朝宴会出席惣代撰托ノコトニ付、才戸金子屋ヘ集会アリ」(6月22日)等とあるように、会合の場所としても利用されていたことがわかる。
 厚木市域北部から愛川町中津方面にかけての農村では、酒食をともなう遊び場として、才戸は田名(相模原市)とともにかなりの人たちから利用されていたのであろう。
 はじめにあげた甚句からは、二階の手すりにもたれかかり、手にしたさかずきを投げ渡すようにして客を呼び込む茶屋女の姿が目に浮かんでくる。
 畑のこうぶしや田のひるも同様、「なけりゃ良い」才戸のお花も、あるが故についついさそわれてしまうのが男心である。

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