連載「今昔あつぎの花街」
連載記事および画像の無断使用は著作権侵害になります。許可なく利用された方は著作権者より損害賠償請求をされることがありますので、ご利用になる方は著者および「市民かわら版」までご連絡下さい。 |
飯田 孝著(厚木市文化財保護審議委員会委員)
著者の斎藤昌三(1887〜1962)は、座間村入谷(現座間市)の出身。『明治文芸側面抄』『明治文化全集』『現代日本文学大年表』などを編し、昭和35年には神奈川文化賞を受賞した。また、茅ヶ崎市に長年住み、晩年は名誉館長を務めた茅ヶ崎市立図書館には、斎藤昌三文庫があって自筆原稿や書簡等も収集されており、70冊を超える著作は『斎藤昌三著作集』に収められている(『神奈川県姓氏家系大辞典』『神奈川のふみくら』)。 さて、『相模女好色考』が取り上げた「相模女」「相模下女」について『広辞苑』には次のように記載されている。 さがみおんな[相模女]相模国の女。情がこまやかで好色との伝えがあった。さがみ。 さがみげじょ[相模下女]相模国から出た下女。川柳などでは多く好色なものにいう。 『広辞苑』には、『柳樽八』の「相模下女相手にとってふそくなし」の用例が示されているが、宝暦から天保年間(1751〜1843)の江戸川柳では、「相模下女」を題材としたものがかなりの数にのぼっている
また、安政4年(1857)初演の歌舞伎狂言「網模様灯籠菊桐」に登場する江戸吉原のおいらん玉菊が、「相模国厚木村の百姓」畑助の娘とされているのも(『黙阿弥全集』)「相模女」「相模下女」の既成概念が世評として江戸庶民の間に広がっていたことと無縁ではあるまい。 ともあれ、『相模女好色考』の巻末部分をあげておこう。 「若し相模女が好色多情であったとしたら、その血統を承けてゐる現在の女性も、亦然りであるべき筈だが、当今の相模産の女性には、さうした噂は殆ど聞くことがない。好色多淫と片付けたのは、大体天保期(約100年前〈筆者注。但し平成13年からは約150年前となる〉)までの川柳や雑俳に限られ、それ以降のものには全くかかる浮説のないことから見ると、結局は宝暦天保間だけの川柳人の遊戯から、とんだ大きな波紋を投げたものといふ結論になる。敢えて相模女のために、古川柳の作者に抗議する次第である」。 |
. |