厚木の大名 <N010>

烏山藩厚木陣屋と相模国所領支配     平本元一

相中留恩記略(『東町二番』)
 前号で烏山藩主大久保氏の系譜は紹介した。ここでは相模国内の所領とその支配及び支配に当った厚木役所についてみてみよう。
 厚木役所(通称厚木陣屋 厚木市指定史跡)は、享保14年(1729)頃に厚木村天王社(現厚木神社)の北側に設置されたとみられる。陣屋には藩から代官が派遣され常住し、年貢の取立てなど領内支配の任に当った。
 厚木村は相模国の中央に位置し、東に相模川が接し、村内を矢倉沢往還が通るなど輸送手段としての水上・陸上交通が発達し、物資集散地として経済活動が盛んであり、有力商人が多かったのである。

 厚木陣屋についての詳細は不明であるが、「相中留恩記略」(天保、安政年間に鎌倉郡渡内村(藤沢市)の名主福原高峰が編集した地誌)に描かれた厚木村図に厚木陣屋が見える。陣屋は相模川河畔にあり、塀で囲まれた中に数棟の建物が見られ、船が一艘つけられようとしている。明治初年の地租改正図によると、敷地は南北約14間(25メートル)、東西約27間(49メートル)で、約1,200平方メートルである。
 明治4年(1871)の廃藩置県により旧烏山藩領は烏山県に属し、厚木陣屋は烏山県出張役場となり、次に足柄県管下となり、その役目を終えることとなる。明治5年(1872)には郷学校成思館(厚木小学校の前身)が移され、明治11年(1878)に厚木町役場として、また、学校はその西側に移設されたが、明治17年(1884)、明治30年(1897)の二度の大火により焼失した。この後厚木町役場、愛甲郡役所が置かれ、昭和30年から45年まで厚木市役所本庁舎として引き継がれたのである。
 烏山藩領は、初代烏山藩主大久保常春の時、相模国の鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の四郡において一万石が加えられた(『寛政重修諸家譜』)。鎌倉郡9ケ村、高座郡13ケ村、大住郡7ケ村、愛甲郡10ケ村の合計39ケ村であり、このうち鎌倉郡での異動があったが、他の三郡の村々はそのまま明治維新まで続いた。また、当初の拝領の村々は全て幕府直轄の地であった(『下野国烏山藩相摸国所領』厚木市史史料調査報告書)。
 愛甲郡10ケ村のうち、現在の厚木市域に該当する村は、安永3年(1774)の調べによると厚木村、上荻野村、林村、川入村、温水村、飯山村、上・下岡田村の8ケ村で、石高は合計で凡そ5,600石ほどを数える(『下野国烏山藩相摸国所領』)。
 さて、烏山藩は領内の支配を強固にするため、享保13年9月に『郷中御条目』として、92カ条に及ぶ様々な法令を発している。例えば、「農耕に精出し年貢皆済に心がけよ」「耕作不精の共同責任」「耕作不精の取締り」「田畑に竹木を植え日影にするな」など詳細な規制を指示している(『下野国烏山藩相摸国所領』)。
 ところで、領主側からのこうした厳しい支配に対して、民衆の側はどのように受け止めていたのであろうか。
 天保2年(1832)9月、三河国(愛知県)田原藩の家老渡辺崋山は、厚木村を訪れた。旅の様子を記した『游相日記』によれば、崋山はこの時、烏山藩政についての見聞を得ている。厚木村の冒頭、「〇政事甚苛刻、人情皆怨怒ヲフクム(中略)又、ヨウキンヲ令シ、民ノ膏腴ヲ奪ヒ一挙二千両ヲ出スモ唯厚木ノミ、亦其ノ盛ヲ可知也」と記し、烏山藩政が苛酷であるとしている。酒井村の侠客駿河屋彦八、医師の唐澤蘭斎もともに藩政に対する激しい批判を行っている。崋山は「余愕然ト驚キ」と述べている。しかし、こうした藩政批判が公然と行われ得たのは豊かな経済力によるものであり、そこにはまもなく訪れる封建制社会の崩壊が感じ取れるようである。       

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