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幕末の動乱と鎌倉郡所領 平本元一 |
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慶長8年(1603)、征夷大将軍に任じられた徳川家康によって開かれた江戸幕府は、凡そ260年間に渡って存続したが、慶応4年(1868)その終焉を迎えることとなった。 江戸幕府は諸外国との往来を禁止し、外への窓口を塞ぐ鎖国政策をとったが、幕府瓦解の大きな要素として、鎖国を打ち破る外国船の渡来による外圧が考えられる。十九世紀のアメリカ、ヨーロッパの世界情勢の大きな変革のうねりが、東アジアにも及び、日本もそうした大きな流れの中で明治維新を迎えることとなったのである。 |
寛政4年(1792)9月、ロシアのエカテリナ号が根室に、文化元年(1804)には同じくロシア船が長崎に入港し、通商を求めてきた。幕府は共にこれを拒絶したが、海防問題に直面することとなったのである。 文化7年(1810)2月、幕府は会津藩主松平肥後守容衆(かたひろ)に江戸湾西側の三浦半島を、白河藩主松平越中守定信に東側の安房・上総(房総半島)の沿岸の警備をさせることとした。こうして、江戸への海上入口左右の警衛は、台場の設置とともに、これを有力な譜代大名に担わせることとなったのである。 また、相模湾に面した地域では、腰越村八王子山に遠見番所が、極楽寺村の稲村ケ崎には台場が設けられた。弘化3年(1846)には、デンマーク船が鎌倉沖にも現われ、入港を求めた。(『鎌倉・横浜と東海道』) 海防を命じられた藩は、負担が多くなるため、所領の一部を振替られた「分領」(ぶんりょう)又は所領以外の預地(あずかりち)として「預所」(あずかりしょ)が与えられた。 さて、享保13年(1728)、下野国(現栃木県)烏山藩主大久保常春は、1万石を加増されたが、その領地は陣屋を置いた厚木村を中心とする愛甲郡内のほかに、鎌倉郡内にも与えられた。鎌倉郡内の村々は、現在の鎌倉市、藤沢市の一部であり、片瀬村、柄沢村、腰越村、小塚村、田谷村、津村、長沼村、笛田村、弥勒寺村の9カ村であった。文化8年には渡内村、山崎村が加えられた(この時点で、長沼村は抜けている)。 幕末の烏山藩については、財政事情が非常に逼迫しており、藩経営は困難を極めていたが、前述のとおり腰越村には、異国船に対する警衛のため番所を設けるなど、さらに負担が増大されたのである。 『下野国烏山藩相模国所領』「相州領派遣代官手控帳」によると、「右四ケ村海岸御防御用ニ付、天保十四癸卯年月上知相成御代官保安右衛門様江御引渡相済、腰越村江建置候遠見番所壱ケ所是又其儘御引渡也」(右4ケ村は、笛田村・片瀬村・腰越村・津村)4ケ村と遠見番所を引渡し、代わりの所領として、下野国芳賀郡に芳志戸村・大谷高根沢村・鐺山村・刈生田村の4ケ村を与えられることになったという。313石ほどの増加となった。さらに、よほどの困窮ぶりであったのであろうか、同じ芳賀郡内の4ケ村(東郷村・中郷村・高岡村、外1村不明)が、5カ年間の領地として任されたという。そして、以後、鎌倉郡内の所領は、安政2年(1855)には、柄沢村・田谷村の2ケ村にまでなってしまうわけであるが、次のように頻繁な領地替が行われたのである(安政以降は不詳)。 享保13年=9ケ村、文化8年=10ケ村、天保14年=6ケ村、嘉永3年=2ケ村、安政2年=2ケ村。 嘉永6年(1853)にはペリーが来航し、翌年には日米和親条約が締結されることとなるが、この時期の鎌倉郡内烏山藩領の激しい領地替は、まさにこうした幕政の極度の混乱を物語っていることの証しでもあろう。 |
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