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荻野山中藩 藩主の系譜 飯田 孝 |
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荻野山中藩は、厚木市下荻野字山中に、藩主の居所を置く一万三千石の大名である。 初代藩主は大久保教寛(のりひろ)。小田原藩主大久保忠朝の二男として生まれたが、宝永3年(1706)10月15日、江戸城西の丸の若年寄に任ぜられ、五千石を加増されて一万一千石の大名に出世した。 大名に列した大久保教寛は、若年寄退任後、駿河国松長村(現沼津市)に陣屋を構え、ここを居所に定めたのである。以降、2代藩主教端(のりまさ)、3代教起(のりおき)、4代教倫(のりみち)、5代教翅(のりのぶ)に至るまで松長陣屋を居所とした。 しかし、5代藩主大久保教翅は、相模国愛甲郡中荻野村(現厚木市下荻野)字山中の地に、山中陣屋を創設して居所を移転、ここにおいて、荻野山中藩は誕生した。 その後、6代藩主教孝(のりたか)、7代教義(のりよし)も荻野山中陣屋を居所とし、参勤交代を行って江戸との間を往復した。 |
7代藩主大久保教義の時代、明治維新をむかえて荻野山中藩は廃藩。廃藩置県によって荻野山中県となるが、荻野山中県は間もなく足柄県に統合され、名実ともに歴史の激浪にのみ込まれて消え去るのである。 以下、『寛政重修諸家譜』『荻野山中藩』によって、歴代藩主を紹介しておく。 初代大久保教寛 明暦3年(1657)に生まれる。元禄11年(1698)10月15日、父忠朝の領地から、相模国足柄、駿河国駿東二郡のうち新墾田六千石を分けられ、翌年には御書院の番頭となった。 そして宝永3年(1706)、西の丸の若年寄に転じて、駿河国駿東・富士二郡のうちから五千石を加増されて一万一千石の大名となるのである。 その後教寛は、江戸幕府の老中に次ぐ要職である若年寄となり、享保3年(1718)3月3日、相模国大住・高座・愛甲三郡から五千石を加増、総高は一万六千石となった。厚木市内村落が大久保氏領となったのは、この時である。 若年寄であった教寛は、五代将軍綱吉の御遺物一休の墨跡掛軸、六代将軍家宣の御遺物雪舟筆山水画掛軸、七代将軍家継の御遺物狩野元信筆陶淵明の掛軸などをたまわっている。 享保8年(1723)3月6日、教寛は十八年におよんだ若年寄職を退任。将軍吉宗は御手づから備前景安の短刀を下賜してその労にむくいた。 教寛は、享保15年11日27日致仕し、元文2年(1737)12月17日81歳の生涯を閉じる。 2代教端 貞享4年(1687)生。享保15年11月27日襲封。三千石を弟の江七兵衛教平に分け、一万三千石を領す。寛保2年(1742)没。年56。 3代教起 享保18年(1733)生。宝暦5年(1755)没。23歳。 4代教倫 宝暦元年(1751)生。安永2年(1773)没。23歳。 5代教翅 明和2年(1765)生。天明3年(1783)荻野山中陣屋を構築して居所をここに移す。天明8年没。年32。 6代教孝 天明7年(1787)生。安政7年(1860)没。74歳。 7代教義 荻野山中藩最後の藩主。西山と号し、神社の扁額やのぼりを書した。荻野山中県知事。後子爵。 |
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