厚木の大名 <N024>

松長陣屋           飯田 孝

松長村絵図(部分)中央左右に通じるのが東海道。東海道下方に神明社と松長陣屋2棟の建物が描かれている(『荻野山中藩』)。   荻野山中藩の藩祖であり、大名に出世した大久保教寛が、最初に居所を構えたのは、駿河国駿東郡松長村(現沼津市)であった。
大名となると、「武家諸法度」に定められた参勤交代が義務づけられる。寛永12年(1635)、大名は毎年四月交代で江戸に参勤することが正式に制度化され、同19年、関東の譜代大名には2月・8月の半年交代とすることが定められた。
大久保教寛が一万一千石の大名に出世したのは宝永3年(1706)。大名となれば、当然参勤交代が義務づけられることになるが、若年寄は老中・奉行とともに定府(江戸に常住すること)であったため、大久保教寛はこの必要がなかったのであろう(『国史大辞典』)。

 大久保教寛は、若年寄退任後、領地と江戸を往復する参勤交代を行なうようになったと見ることができる。
享保17年(1732)の『武鑑』には、江戸の上屋敷・下屋敷とともに「在所 駿州松永」が記載されている。
大久保教寛が松長村に陣屋を構えた理由は明らかにされていないが、松長村のある駿東郡は、小田原城主であった父忠朝から領地を分けられた場所であり、若年寄就任にともなって五千石を加増された領地にも含まれていた。駿東郡は、一万一千石となり、大名に列した大久保家領地の中で、重要な位置を占めていたのであろう。
のち、藩主の居所となる相模国愛甲郡中荻野村(現厚木市)が大久保教寛の領地に加えられるのは、享保3年(1718)のことである(『寛政重修諸家譜』)。
大久保教寛が若年寄の職をとかれるのは享保8年(1723)。松長村に陣屋を構えたのは、@相模国愛甲郡内が領地に加えられて間もなしこと、A駿河国駿東郡が元禄11年(1698)以来の領地であること、B松長村村内を東海道が通じていること、なども、陣屋地選定の理由に含まれていたと考えられる。
前述した『武鑑』に記された「在所 駿州松永」の「松永」は、寛政8年(1796)の「横山兵右衛門殿御渡し御書付」によって、「以来松長村」と書くことが達せられた。この達し書は、幕府の領地目録の記載が「松長村」となっていることに合せるため出されたものであった(『荻野山中藩』)。
しかし松長陣屋の規模に対する具体的な内容は明確でない、とはいえ、「松長村絵図」によれば、東海道に面した敷地には、二棟の建物が描かれているので、大規模な構造ではなかったことが推定できる。この絵図に描かれた松長陣屋は、藩主が相模国中荻野村へ居所を移した後の状況をあらわしているものであろう。
天明3年(1783)、五代藩主大久保教翅は中荻野村に荻野山中陣屋を創設して居所を移転。その後、松長陣屋は駿河国領分五千石の支配拠点となり、幕末期、伊豆国古奈役所(現伊豆長岡町)が廃止されると、伊豆国領五千石の領地も合せて支配する役割をになうようになるのである。
慶応4年(1867)と見られる荻野山中藩順席帳によって、松長陣屋関係者をあげると次のとおりである。
駿豆郡奉行 原田藤十郎
駿豆御代官 布川惣兵衛
駿豆郡奉行手代御代官
      下役布川元八
松長郡奉行手代
   萩原作次郎

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