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大久保教平への分知 伊従保美 |
嘉永武鑑大久保系図に見える大久保教平(上段)〈飯田孝蔵〉 | 享保15年(1730)11月27日、松永藩(のちの荻野山中藩)初代藩主大久保教寛は致仕し、二代教端(のりまさ)に一万三千石をつがせ、その弟の江七兵衛教平(のりひら)に三千石を分知した。これ以後、藩領は一万三千石となる。 教平に分知した所領は、駿河国駿東郡内三か村・富士郡内二か村、愛甲郡妻田村・及川村(以上厚木市)・半縄村(愛川町)、高座郡当麻村・磯部村(以上相模原市)・座間宿村(座間市)、大住郡小稲葉村(伊勢原市)である。 これにより、及川村・半縄村・当麻村・磯部村・座間宿村・小稲葉村の所領は全て教平の支配となり松永藩(荻野山中藩)領からはずれ、妻田村は教端と教平の相給に分割された。 分知された教平の知行所村高を『座間市史』2近世資料編掲載資料によって次に掲げることにする。 |
御分知高 駿河国駿東郡下石田村 一高一六四石三斗九升七合 同郡小諏訪村 一高三〇二石八斗五升三合 同郡根古屋村 一高四二三石三斗八升三合 同国富士郡西川尻村 一高三九石二斗七升五合 同郡依田原村 一高三七三石一斗五升七合 都合五ヶ村 此高合一三〇三石六升一合 相模国高座郡(座)間宿村 一高二二三石四斗九合 同郡磯部村 一高四三石七斗四升八合 同郡当麻村 一高二八二石三斗九升四合 同国愛甲郡半縄村 一高二九九石八斗八升五合 同郡妻田村之内 一高三九七石五斗三合 同国大住郡小稲葉村 一高四五〇石 都合六ヶ村 此高合一六九六石九斗三升 一合 右二ヶ国ニ而都合三千石 しかし、この資料には愛甲郡及川村高一四一石四斗一升一合の記載が欠落しており、小稲葉村の石高に齟齬が見られる。小稲葉村教平領は高一四八石二升五合である(『伊勢原市史』資料編近世2)。 及川村は『新編相模国風土記稿』によれば、「今御料及び大久保鎌之丞教文・高井左京式房・久留十左衛門等知行す」とあり、大久保氏の名が見える。 分知された教平は初代教寛の四男。宝永5年(1708)8月26日生。享保4年(1719)十二歳のとき将軍吉宗にはじめて拝謁し、元文2年(1737)正月使番となり、延享3年(1746)正月には近江・若狭・越前・越後・能登・越中・加賀・佐渡の巡見使を命ぜられ、同年7月28日に帰着している。 延享4年5月には江戸城二の丸の火災消火に尽力し、時服(じふく)二つを賜う。時服とは朝廷や将軍等から二季(春と秋・夏と冬)に臣下に賜った衣服のことである。 寛延元年(1748)駿府の定番になり、宝暦11年(1761)5月3日死す。年は五十四歳。墓所は駒込高林寺(『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』)。 教平の子、二代教近(のりちか・式部のち遠江守)の代、安永6年(1777)11月6日駿河国駿東郡の采地を相模国愛甲・大住二郡のうちに移された。新たに愛甲郡愛名村高五七石七斗五升九合、大住郡南矢名村(秦野市)高三四六石六斗五合二勺が所領として編入された。 この教近の長男教翅(のりのぶ)は、本家荻野山中藩四代教倫の後継となり、愛甲郡中荻野村(現厚木市下荻野)字山中の地に居所を移転した。 教近の次男江七兵衛教富(のりとみ)が分家大久保氏を継ぎ、その子鎌之丞教文から、織部教徳、徳蔵(式部)教愛へと受け継がれ明治維新を迎える。 |
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