厚木の大名 <N033>

成川検校一件       山田不二郎

妻田の旧村役人家所蔵文書。「成川も今以って片付き申さず」の記述がある(年不詳 個人蔵)  藩領一万三千石の荻野山中藩は少藩で、これという特産物はなく、財政豊かではなかった。江戸時代中頃を過ぎると藩財政が窮乏していた状況が窺える。
 寛政6年(1797)、藩は家臣に対し借米・借金を申し付けた。寛政3年に領内で発生した洪水で穀物が損害を受けて出費も多く、さらに翌4年、江戸上屋敷が火事で類焼し、屋敷替え等に多額の出費を要したことで「御勝手向甚御難渋」になったのが理由であった(『松下家文書』)。

 この借米・借金は、高二百石の家老から二人扶持の下級藩士にいたるまで割合が決められ、返済は三年後とされた。藩は同時に、倹約令を発して出費の縮減を図った。しかし、寛政9年の期限がきても藩はこの返済ができず、「追々少々宛も」返済するといって藩内に了解を求めている。
 この後も藩は、さらなる倹約を家臣に命じ、藩に献上する上米・上金まで課したが、藩財政は好転することなく、逆に益々逼迫していった。安政4年(1857)における藩の借財は六万両にもなり、「分限を遙ニ立越、何分ニも手段之道無之」という状態であった(『荻野山中藩』)。こうした時期の嘉永5年(1852)、藩は江戸両国の村松町に住む成川検校から借金をしようとした。これが後、「成川検校一件」と呼ばれる訴訟事件に発展したのである。
 検校について、『神奈川県史』通史編3の解説をそのまま転載させていただく。「検校とは、近世で盲人の官職の最高位である。幕府は盲人保護のため、冥加金を与え高利の貸付を許可していた。(中略)貸付に関する訴訟も優先され、相互の話し合いによる相対済しが適用されなかったので貸し倒れがなかった。」
 嘉永5年4月、荻野山中藩相模領の中荻野・下荻野・三田・妻田(以上現厚木市)・下溝(現相模原市)・山田(現大井町)六村が成川検校から借金をするため村役人が連署した郷印証文を検校側に出した。六村は藩から年貢の先納を命じられたが、調達できないためその年の収納米を書入にして借用したのである。金額は二千五百両、年利は一割二分、返済期限はこの年の11月25日であった。郷印とは村の保証を意味する。書入とは債権者が現物を占有する質入と異なり、債務の不履行が生じたときに占有権が債権者に移ることを担保したものである。そして、この時の収納米の書入については、藩も文書をもって了解していたのであった。
 ところが借用金の返済はなされず、安政4年、成川検校は六村を相手に訴訟を起したのであった。審議は寺社奉行で行われ、村役人も呼び出された。所領の一つ、下溝村に「成川検校一件」と題する文書があり、審議の経過が記されている(『相模原市史』第5巻)。
 これによると、この借用金は初めに藩が成川検校に申し入れたが、検校側から所領の村の引請(保証)がなければ応じられないと断られた。そこで藩は、相模領六村に引請を申し付けたもので、村方の関与はなく返済については藩と検校側とで示談したいと、荻野山中藩家臣高橋弾治はこのように申し立てた。一方、村役人らは、この借用については証文には調印したが、もともと藩と検校側とが相対で行ったもので村は関与しておらず、両者で示談するよう申し立てている。
 結局、この訴訟は藩と成川検校側との示談で決着したようであり、5月16日、村役人らは帰村を許された。この訴訟の前段の嘉永6年、藩は厚木宿和泉屋鉄五郎から二千五百両余を借用し、安政4年には駿河・伊豆領の村々に、借用金返済に充てるため五年間で三千八百両を積立てるよう命じている。成川検校からの借用金との関連はわからないが、藩財政の窮乏は目に余るものがあり、返済のあてのない借金が繰り返し行われていたようである。

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