厚木の大名 <N035>

荻野山中陣屋焼討事件         平本元一

山中城址(荻野山中陣屋跡に立つ石碑)
 幕末、相州愛甲郡中荻野村(現厚木市下荻野)の山中陣屋が焼討される事件が起きた。これが、後々、日本を大きく変える大事件となることは誰も予想することができなかった。
 嘉永6年(1853)6月3日、浦賀沖にペリー率いる四隻の黒船が来航して以来、日本の国内は大きく揺らぎ、やがて幕府瓦解へと進み、明治維新を迎えることとなる。
 慶應3年(1867)10月、幕府は大政奉還をしたが、倒幕を目指す薩摩藩は、戦端を開くきっかけとして、関東で騒乱を起こす計画を実行した。即ち、(1)下野国(現栃木県)都賀郡出流山の挙兵、(2)甲斐国(現山梨県)甲府城攻撃、(3)荻野山中陣屋襲撃の三事件である。下野国、甲斐国は失敗したが、山中陣屋は焼失した。
 では、この事件のあらましを日を追ってみていくことにしよう(『荻野山中藩』『松下家文書』「天野政立所世録」)。
 慶応3年5月 結城四郎(出羽最上の剣士)、石井道三(三千蔵、上荻野村出身)の紹介で鈴木佐吉(荻野の博徒)に会う。結城四郎は事件前に武器、武具、弾薬などを調達し、佐吉宅に隠し置いていたようである。   

 10月10日 江戸三田の薩摩藩邸で薩摩藩士益満休之助、相楽総三、権田直助らが事件を計画する。
 11月晦日 厚木宿大火(後藤火事)。
 12月13日 隊長鯉淵四郎(萩藩士海野次郎と変名)以下七人の襲撃隊、薩摩藩邸を出発。
 12月14日(夜)相模国鶴間村(現大和市)で寺院等放火。
 12月15日 雨の中、厚木の渡しを越え厚木村到着。熊沢屋で昼食。石井道三、山川市郎など合流。総勢三十数名。夕刻出発 妻田村永野家で軍資金調達。荻野新宿で七沢石屋の倅斬殺。四ツ(午後十時)発砲しながら陣屋襲撃。長屋等に放火。金子、武器諸道具を略奪。奉行役三浦正太郎数日後死亡(藩医天野俊長の二男 天野政立十四歳、事件に遭遇)。
 12月16日 六ツ半(午前七時)公所から棚沢を経て下川入へ向う。佐野家で軍用金を調達。略奪した物資を、下荻野村・中荻野村・妻田村・及川村・三田村・飯山村の困窮人に分配。信玄道(津久井へ向う道)を北上し、中津村(現愛川町)へ向う。熊坂半兵衛家、梅沢董一(新選組土方歳三の従弟)家で御用金を調達。
 七ツ(午後四時)三増峠を越え、津久井根小屋(現津久井町)へ入る。久保田喜右衛門宅に泊まる。   12月17日 久保沢(現城山町)から片倉(現八王子市)を抜け、八王子へ向う(八王子道)。甲州街道を通り深夜、内藤新宿(現東京都)到着。さらに三田の薩摩藩邸へ。博徒は藩邸へは入れなかった。
 こうして、山中陣屋襲撃の一件は終了するが、浪士隊と通じ陣屋襲撃に協力した荻野の博徒鈴木佐吉のその後は明確ではないが、相模の地以外を転々としていたようである。
 慶応4年正月24日付け、甲州方面を廻村中の関東取締出役から、捕えた無頼の徒についての照会が山中藩宛てなされている(『荻野山中藩』)。「相州愛甲郡荻野村百姓寅吉事佐吉」「飯山村百姓金兵衛孫孫市事市郎」の両名である。山中藩の返書は襲撃犯ではない旨のものであったが、博徒の罪は免れ得なかったようである。その後の消息は不明である。
 さて、幕府は慶応3年12月25日、山中陣屋襲撃を始めとする関東騒乱の暴徒の拠点である薩摩藩邸を焼討した。これを契機として薩摩藩の幕府攻撃の端緒が開かれることとなり、明けて正月3日、鳥羽伏見の戦が始まり、江戸幕府は滅亡することとなるのである。
 事件に関った上荻野村出身の石井道三、飯山村出身の山川市郎、山中藩医の子天野政立等は、後に自由民権運動に参加することとなるわけであるが、相州愛甲郡荻野村は幕末から明治にかけての日本の変革期にその名を刻まれた地であるとともに、日本の歴史を変えた多くの人物を輩出した土地でもあった。 

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