厚木の大名 <N036>

最後の藩主大久保教義         山田不二郎

荻野小学校「菁莪閣」の額(同校『百年のあゆみ』より転載)

 荻野山中藩七代藩主大久保教義(のりよし)は、安政7年(1860)に亡くなった六代教孝の跡を継いで藩主となった。教義の藩主時代は幕末から明治維新にかかる時期である。
 慶応3年(1867)には勤王派浪士隊による荻野山中陣屋襲撃焼討ち事件に遭い、江戸城開城後の翌明治元年(1868、改元は9月)5月には新政府軍の命により伊豆・相模地方鎮撫のため伊豆国田方郡大場村に出兵。同月に勃発した箱根戦争では、事件の責任を問われた親藩小田原藩の救済のために奔走した。同年9月には領地替えがあり、駿河・伊豆領に代わって愛甲郡内の24村が藩領となったが、翌明治2年6月には他の藩にならって版籍を奉還。教義は藩知事に任命されたが、明治4年7月の廃藩置県によって荻野山中藩は廃止。教義は藩知事の任を免ぜられ、華族となって東京に移住した。このように教義の執政期は、まさに激動と変化の時期であったといえる。
 東京移住後の教義は駿河台で印刷工場を営み、明治23年(1890)には子爵に列したというが、その後の教義についてはよくわかっていない。歴代藩主の葬所教学院には教義の墓はない。また、子孫の家も第二次世界大戦で戦災を受けたという(『荻野山中藩』)。
 この最後の藩主教義の手になる書跡等がいくつかある。『厚木市史』文化文芸編からこれらを紹介しよう。

 和歌短冊
 荻野山中藩士松下祐信の子孫の家に伝わるもので合計五点が伝蔵される。作成年不詳であるが、その一つに「雨降山暁月」と題する次の歌がある。
 有明のたぐひなりけり
 月ハまた つれなくみ
 ゆる嶺の横雲  教義
 「雨降山」は西に見える大山。白く光る月がまだ沈みきっていない、明け方頃の大山の情景を詠んだものであろうか。同家には教義夫人の和歌短冊五点もあり、その一首が次の歌である。
 月日にもおとられ光る
 ますら雄の こゝろを
 ミがく世とは也けり

 小野木守三遺髻塚
 小野木守三は、明治元年の箱根戦争で戦死した荻野山中藩士である。箱根戦争は東海道の要衝箱根関所を巡り、守備役の小田原藩が勤王か佐幕かで藩論が揺れている中で起こった、新政府軍と徳川家回復を図る遊撃隊との衝突事件である。当時、新政府軍は相模・伊豆方面を鎮撫するため小田原に軍監府を設けていた。先の松下祐信とともに、この豆相軍監府に属していた小野木守三はこの戦争で戦死を遂げたのである。
 守三の死を悼み、中荻野・智恩寺に「遺髻塚」(髻 けい。もとどりの意)を銘する石碑が建立された。「明治元年夏五月廿一日義士死」で始まる撰文は石橋奎、書は能書家で知られた上荻野・松石寺三十三世道寧。そして、「忠良」の題額は大久保教義の筆である。現在、この碑は破損して群馬県の子孫の家に移され、境内には台座だけが残っている。

 妻田村郷学校七言律詩
 市内及川の旧家に七言律詩の書があり、末尾に「辛未仲秋十有一日偶過妻田村郷学校 西山」とある。「辛未仲秋」は明治4年8月、「西山」は教義の号である。
 明治4年8月、妻田村などの要望により妻田地内に郷学校静学館(現在の市立清水小学校の前身)の設立が認められた。同月、ここを訪れた教義はこの七言律詩を書して贈ったのであろう。冒頭は「学如禾稲自滋培 不学葛蓬漫折摧」の二句。学ぶこと・学ばざることを、おのずから茂り育つ稲と漫然と折れくじく葛や蓬(よもぎ)に例えて言っているものと解されようか。

 号西山、すなわち大久保教義の書は荻野小学校の「菁莪閣」の額、三田・八幡神社の社号額、下荻野・日吉神社の幟にも見ることができる。

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