厚木の大名 <N040>

荻野山中縣         平本元一

荻野山中縣印『荻野山中藩』から転載  明治元年(1868)閏4月、新政府は「政体書」を制定して、中央・地方の新官制を定め、地方制度は府、藩、県三治の体制とした。翌年1月には、薩・長・土・肥の四藩の藩主が連署して、江戸時代以来の領地領民を朝廷に奉還するという版籍奉還の上表を提出した。これにならい他の諸藩も同様の上表を提出することとなった
。版籍奉還により諸藩主は旧領地の藩知事に任命され、華族となったのであるが、6月23日、荻野山中藩主大久保教義も荻野山中藩知事に任命されたのである。このことによって、藩知事は旧藩の収納高の十分の一が与えられるだけの身分となった。 
 教義が藩知事に任命されてから二年後、明治4年(1871)7月14日、「今般藩ヲ廃シ、県ヲ被置候ニ就キテハ、追テ御沙汰候迄大参事以下是迄之通、事務取可致事 辛未七月十四日 太政官」という「廃藩置県」の天皇の詔が示され、教義は藩知事を罷免され、「荻野山中県」が誕生し、荻野山中陣屋に県庁が置かれた。「追テ御沙汰があるまで」ということで、最初は全ての藩域をとりあえずそのまま県としたものである。
 しかしながら、幕藩体制という支配形態の根幹であった藩を廃することは、名実ともに幕府から明治新政府への転換を意味しており、新たな近代社会への道を歩み始める第一歩であったといえる。三百六十一の旧藩は県となり、それまでの府県とあわせて三府三百二県となった。
 この廃藩置県に当たり、荻野山中藩から領民へ、今後どのように処すべきかを示した次の触書が出された。
 「(前略)今般詔書之通リ廃藩被仰出、我等知事被免候上者、自今其方共ニ及分離、然上者一同江及説諭候茂今日ニ止候間、弥以前般示置候趣意厚体認、朝夕深奉載候様可被致候也 (中略)触朝憲候様之義有之時者、実ニ従五位様御恥辱ニ茂渉候儀故、此旨相弁、弥以可奉報朝恩様可被致候也」
 つまり、「天皇の命により廃藩となり、知事を辞めることになり、領民へ言い聞かせてきたことも今日で止めるので、以前に説き示したことをしっかりと心の中にのみこみ、朝夕崇め敬うようにしなさい。朝廷で立てた決まりに触れるようなことがあれば、従五位様(教義)の恥になるので、このことをよくわきまえて、朝廷の恩に報いるようにしなさい」ということで、旧来の領主と領民との関係が終り、朝廷への報恩、つまり天皇制国家への忠誠という方向へ導くことが示されているといえる。旧藩主の時代への対応という面で興味深い。
 さて、時代の変革の波はさらに激しく、新政府は明治4年11月に県治条例を定め、三府三百二県の整理統合を行い、三府七十二県とした。これに伴い、荻野山中県も、7月に新設されたのもつかの間、11月14日には、旧小田原藩を中心として新たに設けられた足柄県への統合が行われることになったのである。ここに、天明3年(1783)中荻野村字山中に陣屋が置かれ、荻野山中藩が創設されて以来八十八年、その名が消えることとなった。
 荻野山中県の廃止は、一つの行政体の解体を意味しており、多くの旧家臣が失職することであり、大きな混乱をまねくこととなった。新政府は禄制を定め公債証を与え、数十年後の元本・公債償還とし、毎年その利子を交付するなどした。また、荻野山中県は、家格に応じた旧藩予備金の分配や陣屋敷地・武器什器の分配・競売を行った。しかし、旧家臣の生活は困難を極め、「旧藩地ニ永住ト居セシモノハ僅カ二三家ニ過ギズ」(「松下祐信自伝」)であった。明治9年(1876)4月18日、足柄県は廃止され、神奈川県へ分属し、今日の神奈川県域の原型ができあがった。

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