厚木の大名 <N042>

    市域の小田原藩領       山田不二郎

小田原城址
 相模(神奈川県)小田原は東海道の難所箱根の東出口となる要衝の地である。戦国時代には後北条氏の本拠地となり、城下町として発達した。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏は滅亡。全国統一を果たした秀吉から関東に領国を与えられた徳川家康は江戸を本拠として入封した。家康は江戸周辺に家臣を配し、小田原城主には譜代の家臣大久保忠世を起用、ここに小田原藩が成立したのである。
 初代藩主となった大久保忠世は三河(愛知県)の生れ。16歳の初陣以後、多くの武功があった。文禄3年(1594)、嫡男忠隣が家督を継いで2代藩主となった。
 忠隣も三河以来徳川氏に仕え、江戸幕府初期の重臣としての地位を築いてきたが、慶長19年(1614)突如改易されて近江(滋賀県)に配流となった。重臣の1人、本多正信との勢力争いに主因があったといわれる(『神奈川県史』人物)。
 忠隣改易後、小田原は幕府直轄となり小田原城も管理下に置かれた。元和5年(1619)に阿部正次が入封したが、正次はわずか四年で武蔵(埼玉県)岩槻に転封となり、小田原は再び幕府直轄となる。寛永9年(1632)、今度は下野(栃木県)真岡城主の稲葉正勝が小田原に転封となった。この稲葉氏の統治は正勝・正則・正往の3代にわたった。
 一方、改易された大久保氏であるが、近江に配された忠隣は結局許されずに寛永5年、当地で没した。嫡男忠常は武蔵騎西に2万石を領していたが忠隣の失脚前に病没し、遺領は忠職が継いでいた。この忠職も祖父忠隣の改易に連座して蟄居させられていたのである。
 寛永2年に蟄居を解かれた忠職は同9年、美濃(岐阜県)加納城主5万石を与えられ大名に復帰した。忠職とその家督を継いだ忠朝(養子)はこの後、播磨(兵庫県)明石・肥前(佐賀県)唐津・下総(千葉県)佐倉と転封を重ねたが、貞享3年(1686)、忠朝は佐倉から小田原転封を命ぜられた。
 このような変遷を経て、大久保氏は再び小田原藩主として治政を行うことになったのである。忠朝以降の藩主は忠増―忠方―忠興―忠由―忠顕―忠真―忠愨―忠礼―忠良と続き、明治維新を迎える。
 忠職・忠朝は度重なる転封にあまんじたが、同時に所領も加増されてきた。忠朝の小田原入封の時には石高10万3千石を数え、その所領は小田原城周囲の足柄上郡・足柄下郡をはじめ、駿河(静岡県)・伊豆(同)・下野・播磨の計5国321村にわたり、元禄7年(1694)には河内(大阪府)に一万石を加増された。次代藩主忠増の相続に際し、弟教寛に6千石が分与され、これは後、荻野山中藩の成立につながる。
 さて、大名の領地は幕府の都合による上知(領地の幕府編入)や村替えが度々行われた。小田原藩では大きなものとして、宝永4年(1707)の富士山噴火の被害地対策に伴う領地替えがあり、江戸時代後期には異国船に対する海防目的の領地替えがあった。天保14年(1843)、相模三浦郡の所領5千4百石余が上知され、他の相模国内四五村の地が代知(代替の領地)となった。小田原藩の任務を浦賀奉行援兵から伊豆援兵に切替えるための措置とされ、東海道平塚宿や大磯宿など沿岸部の要地も含まれた(小田原市史』)。
 この中に厚木市域の下津古久村17石余、戸田村11石余、長沼村30石余、戸室村新田48石余、小野村と同村新田20石余が含まれている。これらは各村にあった直轄地と思われる。しかし、市域の新たな小田原藩領は数合わせという観もあり、どう解すべきか難しい。

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