厚木の大名 <N043>

  最後の小田原藩主大久保岩丸    山田不二郎

靖国神社(東京都千代田区)
 慶応4年(1867)に起こった箱根戦争終結後、政府軍の軍監斬殺などの責任を問われた小田原藩の処分は、明治改元後の9月27日に言い渡された。その内容は「出格之御仁恤」をもってなされたもので、藩主大久保忠礼は永蟄居となったが、家名の存続が許され、3万8千石を減封されたものの7万5千石を拝領し、小田原城もそのまま預け置かれた。そして、後継者は大久保家縁戚の者から選ぶというものであった(『荻野山中藩』)。
 10月朔日、小田原藩は藩臣一同の願いとして「中務少輔嫡子 大久保岩丸 当辰十一歳」を忠礼の後継者とする願書を大総督府に提出した。これを受け、同2日、大総督府は岩丸に家督相続を許可、翌3日、岩丸は大総督府に相続請書を提出した。箱根戦争の処理はこのような経過で収束したのである(『前掲書』)。この「中務少輔」とは荻野山中藩主大久保教義である。荻野山中藩は元禄〜正徳期の小田原藩主大久保忠増の弟、教寛を藩祖とする支藩であり、教義は小田原藩存続の為に奔走したという(『前掲書』)。
 宗家の大久保家を相続した岩丸は、名を忠良と改めて小田原藩主となった。『小田原市史』(史料編 近世T)所収の「大久保氏の年譜(忠増〜忠良)」は、岩丸=忠良の生涯を次のように記している(期日ほか一部の記載には他の文献との相違があるが同資料に基づいた)。
 〇安政4年(1857)5月5日、父大久保教義、母加納遠江守久儔の女(むすめ)の長男として江戸麻布市兵衛町の藩屋敷で生れる。
 〇明治元年(1868)10月2日、小田原藩主大久保忠礼の養子となり、忠礼の家督を継ぐ。同八日、名を忠良と改め、小田原藩主となり七万五千石を拝領する。
 〇同年12月6日、初めて小田原に入る。
 〇明治2年3月18日、版籍奉還を奏上する。
 〇同年6月6日、小田原藩知事に任ぜられ、家禄として現石の10分1を拝領、翌七日には、従五位下に叙せられ、相模守に任ぜられる。
 〇同年7月4日、職務執行のため帰藩を命ぜられ、同21日、小田原に移る。
 〇明治3年10月12日、小田原城を廃する。
 〇同年12月16日、徳大寺公純卿の子女を娶る。
 〇明治4年2月、華族に列する。
 〇同年7月15日、廃藩置県により、小田原藩知事を免ぜられる。
 〇同年9月3日、小田原を発ち、東京に居を移す。
 〇明治6年5月9日、皇居造営資金千円を献ずる。
 〇明治8年7月8日、病のため隠居し、家督を養父忠礼に相続する。
 〇明治9年1月21日、陸軍教導団に入営する。
 〇明治10年(1877)三月九日、陸軍伍長となり大坂鎮台に配属される。
 〇同年3月18日、征討軍付けを命ぜられる。
 〇同年3月27日、東京鎮台第三連隊第三大隊第三中隊に転属する。
 〇同年3月29日、肥後国(熊本県)山本郡木留口・平野村の激戦において戦死する。
 大久保岩丸=忠良は、明治維新の混乱の中、11歳の若さで小田原藩を継ぎ、藩の廃止に伴い最後の小田原藩主になった。版籍奉還後、藩知事に任命され家禄を与えられたが、現石10分1という実高は二千三百石余であった(『神奈川県史』)。東京移住後、家督を養父に譲り、軍人を志して陸軍に入営、西南戦争に出征して熊本県の激戦地で戦死を遂げる。ときに21歳であった。御霊は忠良尊として靖国神社に合祀されたという。  

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