厚木の大名 <N044>

    六浦藩と市域村落       山田不二郎

米倉氏墓所・蔵林寺(秦野市)
 六浦藩は武蔵国久良岐郡六浦社家分村(横浜市金沢区)に陣屋を構えた米倉氏を藩主とする。米倉氏は甲斐(山梨県)武田氏の家臣であったが、武田氏滅亡後は徳川氏に仕え、相模国内に領地を与えられた。米倉氏が大名に取立てられるのは貞享元年(1684)に家督を継いだ昌忠の時である。
 貞享元年、昌忠は父昌純の死去に伴い家督を継ぐ。その遺領は弘化2年(1845)に作成された「米倉氏系譜」(『神奈川県史』資料編5)によると六百石であった。しかし、この昌忠は貞享2年に御徒頭、同3年に目付、同4年に桐の間番頭と様々な役職に付いていき、元禄5年(1692)には側用人に起用された。
 これに伴い、所領の方も元禄3年に5百石、同5年に1千9百石、同7年に1千石、同8年には1千石を加増された。元禄9年(1696)、昌忠は若年寄に昇進、領地1万石を拝領して大名に列したのである。昌忠はこの時、名を昌尹と改めた。さらに元禄12年にも5千石の加増があり、所領は1万5千石となった。大名になった昌尹は居所を下野国都賀郡(栃木県)皆川村に定め、ここに米倉氏皆川藩が成立した。その年次は5千石が加増された元禄12年とされる(『諸侯年表』)。後年の資料ではあるが、この皆川村は天保9年(1838)の「六浦藩郷村高辻帳」(前掲書所収)記載の村の中で最も石高が多い村である。
 元禄12年、昌尹は江戸屋敷において病死し、遺骸は大住郡堀山下村(秦野市)蔵林寺に葬られた。昌尹の家督を継いだのは昌明である。この相続に際して3千石が弟の忠直に分知され、米倉氏の所領は1万2千石をもって幕末にいたる。昌明以降の藩主は3代昌照、4代忠仰と続き、忠仰の時の享保7年(1722)、陣屋を皆川村から武蔵国六浦社家分村に移した。皆川藩は廃藩となり、六浦藩が成立した。忠仰以降の六浦藩主は、里矩―昌晴―昌賢―昌由―昌俊―昌寿と続き、昌言の時に明治維新を迎える。なお、この六浦社家分村一帯は金沢と通称され、米倉氏の陣屋も金沢役所・金沢陣屋と称していたが、明治維新の際、旧大名領を藩と公称するにあたり加賀国(石川県)金沢藩との同一名称を避けるため、六浦藩が正式名称となった。
 米倉氏の所領は、大名昇格時の元禄9年4月に下された「領知目録」(前掲書所収)によると、武蔵国幡羅郡・埼玉郡に各1村、同足立郡4村、同比企郡3村、相模国大住郡1村、上野国碓氷郡2村、同群馬郡6村の18村にあった。元禄12年の5千石加増後は、武蔵国埼玉郡2村、同久良岐郡7村、同多摩郡4村、相模国大住郡13村、上野国碓氷郡4村、下野国都賀郡4村、同安蘇郡5村の計39村(「米倉氏系譜」)、3千石の分知後の宝永二年(1705)には、武蔵国埼玉郡二村、同久良岐郡六村、相模国大住郡九村、同淘綾郡一村、下野国都賀郡6村、同安蘇郡6村の計30村にあった(前同)。
 この数か国に分散した米倉氏の所領の一つに大住郡下津古久村領(厚木市下津古久)がある。「米倉氏系譜」宝永二年の記載に初めて見え、石高は百石であった(「六浦藩郷村高辻帳」)。なお、『新編相模国風土記稿』同村の条には元禄年中に米倉氏に分与されたと記されている。その時期ははっきりとしないが、江戸時代中期以降、厚木市域に大名米倉氏の所領があったことは確かである。
 さて、初代昌尹が葬られた曹洞宗蔵林寺のある大住郡堀山下村は米倉氏本貫の地であった。昌尹の祖父永時(清継)は徳川氏の関東入封に従い、堀山下村に2百石を与えられた(『寛政重修諸家譜』)。『風土記稿』同村の条には「領主米倉氏屋敷跡」が記されている。蔵林寺は昌尹が先祖供養のため本堂庫裏を建立して中興した寺と伝え、一族墓地のほか、昌尹の木造坐像など米倉氏ゆかりの品が蔵される。

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