厚木の大名 <N045>

    田沼意次の厚木市内所領     飯田 孝

田沼意次『寒川町史』6通史編 原始・古代・中世・近世より  宝暦5年(1755)9月19日、幕臣として頭角をあらわし、のちに老中にまでのぼりつめる田沼意次(たぬまおきつぐ)は、新たに領地を加増されて五千石となった。この時相模国では、厚木市内の長谷・船子の二か村が田沼氏所領となり、足柄下郡では小橋・中村原・上町・小竹(以上小田原市)各村が田沼氏領となった。
田沼意次の父意行(もとゆき)は紀州藩の足軽であったが、藩主徳川吉宗が将軍として江戸城に入ると、これに従って幕臣となり、享保18年(1733)9月11日、相模国大住・高座郡のうちにおいて三百石の采地を加増された。田沼意行所領に加えられた大住郡の村は戸田村(厚木市)、高座郡では本蓼川(ほんたてかわ。綾瀬市)・小動(こゆるぎ。寒川町)のあわせて三か村であった(『綾瀬市史』6通史編中世・近世)。
 享保19年(1734)12月18日、意行は四十九歳で没する。翌享保20年3月、父の遺跡を継いだ意次は、寛延元年(1748)に御小姓組の番頭となって、下総国において千四百石を加増され、宝暦元年(1751)には御側に進んだ。「御側(おそば)」とは御用取次などにあたった側衆(そばしゅう)のこと。その後、明和4年(1767)には十代将軍家治の側用人となっている。
八代将軍徳川吉宗のあと、延享2年(1745)〜宝暦10年(1760)まで在職した九代将軍家重は暗君として知られていた。家重の明晰さを欠く言語を理解できるという特殊技能によって、勢いを増していた側衆・御用取次の大岡忠光が宝暦10年(1760)4月に没する。
忠光が没した翌月、家重は将軍職を家治に譲ったが、この家治も凡君と評される人物であり、実権は田沼意次・意知の父子に掌握されることになるのである(『国史大辞典』)。
宝暦元年に側衆となった意次は、その後加増を重ね、宝暦八年には一万石の大名となり、さらに一万石を加増された明和4年(1767)、遠州相良(さがら。静岡県相良町)に居城を築いた。意次は安永元年(1772)老中に栄進、「田沼時代」と呼ばれる全盛期を築いて、天明5年(1785)には五万七千石となった。
『厚木市史』近世資料編(2)村落1によって、厚木市内の田沼意次所領石高をあげると次のようになる。
戸田村 十石四斗
長谷村 二百石
船子村 二百五石九斗九
升二合
 長谷・船子の田沼氏所領は、宝暦10年(1760)、一時幕府領となってから下総国佐倉藩領に変わっているので、戸田村田沼氏所領も同時期に幕府領となったと考えられる。
厚木市内の田沼氏所領は、意次が一万石の大名となって間もなく領地替となるが、長谷・船子両村には、宝暦六年と宝暦七年の年貢割付状が残っていて、村落支配にあたった田沼家家臣三好四郎兵衛・井上官治両名の名前を知ることもできる(前掲『厚木市史』)。
 田沼意次が一万石の大名となった宝暦8年(1758)から28年後、天明6年(1786)に意次は失脚。所領のうち四万七千石と居邸を没収され、天明8年7月24日、失意のうちに七十歳の生涯をとじる。一万石に減封された田沼家は、陸奥国信夫郡・越後国頸城郡に領地を移されたが、のち陸奥の領地は相良の旧地に戻されて明治維新をむかえるのである(『国史大辞典』)。          

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