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『文化武鑑』に記載された堀田相模守正愛(厚木市史編さん係蔵) | 宝暦5年(1755)9月19日、幕臣として頭角をあらわし、のちに老中にまでのぼりつめる田沼意次(たぬまおきつぐ)は、新たに領地を加増されて五千石となった。この時相模国では、厚木市内の長谷・船子の二か村が田沼氏所領となり、足柄下郡では小橋・中村原・上町・小竹(以上小田原市)各村が田沼氏領となった。 田沼意次の父意行(もとゆき)は紀州藩の足軽であったが、藩主徳川吉宗が将軍として江戸城に入ると、これに従って幕臣となり、享保18年(1733)9月11日、相模国大住・高座郡のうちにおいて三百石の采地を加増された。田沼意行所領に加えられた大住郡の村は戸田村(厚木市)、高座郡では本蓼川(ほんたてかわ。綾瀬市)・小動(こゆるぎ。寒川町)のあわせて三か村であった(『綾瀬市史』6通史編中世・近世)。 |
厚木市域の村、上落合・船子・長谷の三か村が下総国佐倉藩領となったのは、宝暦十年(1760)であった。佐倉藩の居城は佐倉城(千葉県佐倉市)。現在城址には、国立歴史民俗博物館が建設されている。 佐倉藩は、慶長十二年(1607)の小笠原吉次入封以来、幕府譜代藩領として固定したことが特徴の一つとされる。以降藩主は、土井利勝―石川忠総―松平家信・康信―堀田正盛・正信―松平乗久―大久保忠朝―戸田忠昌・忠真―稲葉正往・正知―松平乗邑・乗佑と変遷、延享三年(1746)、松平乗佑が出羽国山形へ転ずると、堀田正亮が山形から入封、以後は堀田氏所領から変わることなく廃藩置県をむかえるのである(『藩史大事典』)。 十万石を所領し、佐倉藩主となった堀田正亮は、宝暦十年(1760)四月一日、さらに一万石を加増されて合計十一万石の大名となる。 十一万石となった佐倉藩領のうち、相模国では次にあげる十七か村が佐倉藩領に編入された(『綾瀬市史』6)。 上河内村・国分村(海老名市)、小園村・吉岡村(綾瀬市)、用田村(藤沢市)、上谷村・大竹村・沼目村(伊勢原市)、真土村・打間木村・宮下村・平等寺村・西海地村(平塚市)、落幡村(秦野市)、上落合村・船子村・長谷村(厚木市)以下、『寛政重修諸家譜』・『藩史大事典』によって厚木市内三か村が佐倉藩領になって以降の歴代藩主を紹介する。 堀田正亮(ほったまさすけ) 正徳二年(1712)山形に生る。寛保二年(1742)寺社奉行、延享元年(17445)に大坂城代となった。延享二年には老中となり、翌延享三年佐倉入城、寛延二年(1749)に老中上首となる。宝暦十年(1760)には一万石を加増されて総計十一万石の大名となった。宝暦十一年二月八日卒。享年五十。陵阿松月渓惟心青雲院。浅草の日輪寺に葬す。 正順(まさあり) 延享二年(1745)生る。宝暦十一年三月二十六日遺領を継ぎ、十一万石を領して佐倉を居城とする。天明三年(1783)寺社奉行、天明七年には大坂城代に転じ、寛政四年(1792)京都所司代となった。文化二年(1805)七月十二日卒。定阿観月義徳惟心院。浅草日輪寺に葬す。 正時(まさとき) 宝暦十一年(1761)生る。藩主就任期間は文化二年(1805)八月二十七日から文化八年四月十日。文化八年四月十日卒。泰阿法山謙良自性院。浅草日輪寺に葬す。 正愛(まさちか) 寛政十一年(1799)一月十三日生る。文政四年(1821)十二月、藩の財政・農政改革を開始する。文政八年一月二十二日卒。信阿伯行逢丘謙良院。 正陸(まさよし) 文化七年(1810)八月一日生る。天保五年(1834)寺社奉行、天保八年には大坂城代。天保十二年から十四年までと安政二年(1855)から安政五年まで二度老中に就任した。元治元年(1846)三月二十一日卒。見山静心哲恵文明院。葬地は佐倉の甚大寺。 正倫(まさみち) 嘉永四年(1851)生る。明治三年(1870)三月、藩主正倫は徳川慶喜助命哀訴のため東海道を西上し、駿府で東征軍に捕えられ、京都において謹慎、勤王の誓詞を出す。明治四年七月廃藩置県。同年九月十五日、正倫は佐倉を出て東京に移住した。明治四十四年(1911)一月十一日卒。 |
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